数学教育における“負債”の“さき送り”
根岸 秀孝
1999年9月
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いろいろなかたちで社会から数学教育が観られるようになってきた。
これまでは、数学教育界の内部でお互いに意見を述べ、あるいは批判をもふくめた議論があって数年は経ていると思う。いよいよ 光があたってきた。諸々の見方はあろうが、ここでは表題の視点で述べる。
数学教育において“さき送り”してきた“負債”という見方をすると、それは紛れもなく“数学嫌いの生徒たち”と思う。 金融界のそれと違って、この負債の実害は見えてこない。顕在せずに何年もたってしまう。そして、技術立国、ビジネス立国を目指しているわが国の若者は、これからの国際社会では否応無しに、それぞれの分野で他国の同世代の人たちと働かなければならなくなる。 多国籍企業ではそうなってすでに何年もたつ。ここで、問題になるのは、“数学が基盤”になっていない分野は極めて少ないと言うことである。統計数学などはその冴えたるものの一つ。 数学学習をとうして得ることが出来るであろう、発見力、論理的思考、分析力、論証方法、客観的説得、ひろくはプレゼンテーション(伝達手法)等々、の力量の個人差がじつに明快に見えてしまう。仲間内のコンセンサスを味方としてやってきたこれまでの日本社会の方法は諸外国には通じない。“わかりにくい日本の論理、活動”として他からは見られている。よく云う“文系、理系”という分野にとらわれず数学嫌いという“負債の先送り”は止めなければならない。すくなくとも、学校数学においては、数学に対しての“親しみ”ぐらいは最低でも味わって卒業して欲しい。これまでになく、教員全体の質的転換が求められているように思う。


さて、どのようにして、数学嫌いを少なくするかである。まずは授業のなかで学習そのものを生徒達に戻してやることが考えられる。“学習の、生徒への奉還”である。学習を“自分ごとに感ずる”状況設定。これは現行の学習指導要領のもとでも充分に実践可能である。実際、そうした授業を何度も観てきた。岡山県で、大阪府で、東京都で。そこに特徴をみるとすれば、生徒達が数理にもとづいたプロセスとか、現象とかを自分で探り、いじりまわすことの出来る道具が介在している。紙であったり、理科実験まがいの仕掛けであったり、数表であったり、電卓であったりする。とくに著しく生徒がのめり込むものに、テクノロジーという道具がある。 これが現在世界中で話題になっていて、さらに実践が進んで効果をあげている。
パソコン、グラフ表示付き電卓等...。 ソフトウエアのなかには、盛り込み過ぎというか、生徒達の学習部分までソフトに組み込まれていて、生徒達から学習の機会を奪ってしまうような親切過剰なものも少なくない。また、一部であろうが、誤った理解がある。こうした道具は所詮道具である。使い手次第だ。“道具が存在する、さあどう使おうか”というのでは逆である。数学教育改革をどのように考え、どのように実践していくか、ということが先決で、そこを見据えて、ではどのような道具があればそのことの実現が可能になるのか、という理解でありたい。狙いと、大袈裟にいえば哲学なくして、道具の意義、その活用は議論できない。


米国ではこの“先送り”の歯止めに挑戦して10年が経とうとしている。 授業を参観すると実に楽しい。盛んな議論が生徒の間でかわされる。 教師は暖かい目で見守るファシリテイター役。 全員とは言わない。 ある% の学生ではあったとしても、企業に入ってくる若い世代の数学力を基盤とした能力は大したものである。 米国のトップ10%の高校生と比較して、日本の高校生の力量 は?     (HN) 
     



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