どういうわけか文系・理数系。その功罪。そして...。
 
根岸 秀孝
東京理科大学数学教育研究会 40周年記念号 1998 第40巻 1号
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いつからだろうか? こうした分けかたが何の疑問もなく常識化してきたのは。 文系・理数系という分けかたは、まさに受験が目的とでもいえるような教育体系の象徴といえそうだ。 そこにはいろいろな不都合がみえてくる。

では、 何をもってこのような分けかたがされるのであろうか。おそらく中学あたりの数学と理科系の成績がその起因であろう。 数学ができる子(単に試験の成績をみて)はその生徒自身、両親、担任の教師もなんとなく、”この子は理数系にむいている”という認識がもたれる。 このことに異論をもつ人は少なかろう。そこで、数学、理科の成績が悪いことをもってして、 ”この子は文系”ということになる。なんとも単純明解で解りやすいといえばそのとうりの見識である。 この認識が全て間違いとはいわないが、もう一度このことの大事さを考えてみる必要がありそうだ。

受験にむけての成績云々 はさておいて、次世代を担う子供達と真剣にたちむかい、数学教育で養われる重要な能力を大切にして、日ごろ授業に工夫をし、真の学習のよき導き手として実践をされている教師は少なくない。 その逆に、 与えられた教科書、教材、模擬試験にそって、とにかく授業過程をこなすというような形の実践で手いっぱい、という教師もまた少なくない。 学校の運営というもう一つの仕事をこなさなくてはならない仕組みが存在する。 個性を重んずる教育目標をかかえながら、個性的、創造的授業とはほど遠い毎日を過ごさざるをえない先生方が多いのが現実であろう。 ちなみに米国の教師はその仕組みが故に、授業内容そのものに工夫をすることが教師というプロだという意識と実践がある。 大いに違いがありそうだ。

いずれにしても、生徒達は日々の授業のなかに、教科への関心と熱意、またはその逆を感じながら学習の場に身をおいている。よい教師にめぐり会えた生徒は自身のなかに潜在する能力を発見し、つぎへの挑戦心を無意識のうちに伸長させる機会を多く持つことになる。 これに反して、ごく一般的な状況のなかで、数学学習に対して徐々にその関心を削がれていく子供たちが存在する。 本当は素晴らしい数学的潜在能力を持っているかもしれない子供達が。そして・・・・・、 試験結果がその成果を見えるものとして生徒自身に、教師に、両親に知らせ占める。 で、 文系・理数系という”判定”を生む。文系との”判定”をもつ子のなかに、もしかしたら、学習の仕方が違っていれば、相当に高い数学的能力を発揮する子がいて不思議ではない。 検証の方法が難しいことではあるが。実業・産業の世界にいると、よく気がつくことがある。 経済・商学を卒業した若い世代の連中で、 何年かの会社経験の後に、素晴らしい理数系の能力を発揮るものが結構多くいる。 工学部卒のエンジニア顔まけの設計アイディアを出してくる。 理系的な解決策をどんどんこなす。 この逆で、中学・高校の数学で高い成績をのこし、技術系へと進学し、エンジニア職のプロでありながら、なんとも貧困な技術発想をしている者も多い。

13−18才の潜在能力は計り知れない。 いかにこの事の価値を本人に認知させ、学習の向上心を引き出すか。 このことに教師の使命があるとすれば、 いかなる努力をしてでも、子供達が数学学習に関心をもち、面白いと感じ、探求し、自ら挑戦するエネルギーを培うかが問われる。 ”数学は好きではない”との感覚を植え付けるのはいとも簡単である。 いままでどうりの知識伝達型、数理展開のノウ・ハウ知識の記憶型授業・学習を繰り返していくだけでことが足りる。 そして、挙げ句の果てが、識者をして、数学授業の時間の削減を語らせる。 なんとも切ない思いである。

もう一度ここで 文系・理数系 と分けてしまうことの弊害を考えてみる必要がありはしないか。そして・・・・・・・。


こうした話しをよく耳にする。 米国での数学教育をながめてのコメントである。”釣り銭の計算もままならぬ市民を多く輩出してきたこの国の数学教育はいったいどうなっているのか。”、 ”日本の大学受験の問題を ハーバード大の学生にやってもらったところ、なんとも寂しい結果だった。 この国の数学教育のレベルの何たるかをみる。”、”高校の授業を参観する機会があったが、その内容は日本の中学のレベルだった。”このようなコメントの多いなかで、知人の数学教授のご子息の話しを紹介する。 彼は西日本で秀逸の(東大合格者が多いという点で)私立高校に学ぶ生徒だが、2年を終えたところで、米国のある高校に留学した。 日本での高校数学のほぼ全ての過程を 2年で終えての留学だ。 本人も親御さんも、まあ 数学はそれほど苦労もなかろうとの事前感覚だった。 ところがである、彼はあまりのレベルの高さを知り、ファクスでその内容を父親に報告したというわけだ。 ある研究会でその問題が皆に紹介され高い関心をえた。一部の観察をもってして、”米国の数学教育は・・・”との話しをよく聞くが、多くの誤解を含んでいるということに気を付けたい。 現地でこの 7、8年の観察体験からの実感である。

確かに小中学生の数学学習の国際比較からみるかぎり、それは国際的に比較できる共通の問題という限界を知った上での話しであるが、韓国、香港、日本の子供たちは成績が高い。 数学が好きか嫌いかの質問には数学嫌いが多い韓国と日本。 この比較では米国の子供達のあいだでは数学嫌いが減少してきた。 そこで、高校数学の履修比較はというと、これを明らかにする調査を知らない。もし 日米両国のトップレベル10%の高校生を比較してみると・・・・・。 背筋が寒くなるとは言い過ぎかもしれないが、この10年、米国の数学教育は明らかにその変革をしめしているようだ。何が違ってきたのだろうか。 講義主体の知識伝達的授業から、生徒に主体性を持たせた、言い換えれば、生徒自身が学習・探求にOwnership を感じる授業という変化であろう。

我が国の数学授業は、記憶すべき知識とその理由付け理論という知識の、教師から40ー50人の生徒達への一方通行的な知識伝達が行われる場に化してはいないか。 数学学習の”面白さ”を教師達が、教育のシステムが、生徒から奪ってしまってまっているとはいえないか。 生徒達に与えられるのは、学習時間の大部分をさかれる”数学における労働作業”ともいえるプロセス。 問題解決への”思考”そのものの楽しさと、そのあとにくる”発見”、”解決”の喜びを味わう機会。 この大事な機会を子どもたちにもっと持たせる努力が大事なのでないかと反省する。解決策は簡単ではないが、 手はある。 先ず教師は、”知識伝達業”から、 生徒への”支援業”に変革することである。 教師は子供たちの限りない”前進欲” を脇で支えるFacilitator の立場。 これを可能にするのがTechnology の活用である。 生徒達の気づき・もしこうだったらどうなるの、という発想を視覚化してくれる道具。 こうした数学操作のなかに数理の面白さを感じる学習。そうした道具をつかうことが不可欠といえる。 グラフ電卓等 手のひらサイズのTechnology活用に相当な解決策がある。 米国の数学教育でこの活用とその検証が進んでいる。 パソコン活用の失敗のあとで。このグラフ電卓といった手のひらサイズの Technology 活用における意義を真に理解し、実践をしている教師はまだ少ない。 単にグラフを表示できるという便宜性を活用するというような狭義のテクノロジー活用というかたちが多い。 それでもこの試みてみるという熱心さには敬意を感ずる。問題なのは、 昨今、多くの試行のなかで、 ”どうも グラフ電卓はこれまで耳にしてきて、期待したほど使い易いものではない。 50人の生徒をかかえて、あちこちでパニックが起きたりでどうもうまく行かない”という評判を聞くことが多くなってきた。 これは大変な問題である。いっときのメーカー側のエゴも絡んで入ってきたパソコンが、 数学教科では使えきれず、コンピュータ・リテラシーとしての授業か、ワープロとしての活用以外はあまり利用されずに、ズラーッと並んだパソコンの部屋に鍵がかかって、というようなことと同様になる。 なぜこのような評判があるのか。 どうもその答えとして次にようなことが言えそうだ。
我が国も何種類かのグラフ電卓が出回っているが、真に学習用道具として、教育者、現場の教師、その使い手の生徒達によって、”学習用”として磨かれ、練り上げられた教具のレベルにまでいま一つ達してないのではなかろうか。 このあたり、米国教育界にその先人としての一日の長をみる。

その先進米国教育者のレベルに達し真にテクノロジーの価値を深く理解し実践している教育者は我が国にはまだ少ない。 これまでに知り得た識ある多くの諸先生方のなかで。 この方たち、これまでの数学教育に多大な貢献を残された方には恐縮ではあるが、新しい学習の研鑚のため米国での研究会参加、授業参観の経験豊富な現場の教師の意見に耳を傾けることをお勧めしたい。米国でもそうであるが、この動きの中心は Classroom Teacher と呼ばれる現場の教師達の絶え間ない努力と熱意、子どもの目と目が輝く教室から生れた変革である。昨今、多くの大学教育者、公立機関の研究者のあいだで、グラフ電卓を話題にする人が増えてきた。 実に多くの報告書、ジャーナル、会議での講演をこの 3ー4年間可能な限り目をとうし、聴講してきた。 しかしながら、事柄としての動きを捉えるらえた発言が多く、 啓蒙はしてくれてはいるものの、真にその価値に触る、深い理解と実践体験をもととしたものはまだ少ない。
”教育”というと、教える、育てる、すなわち教師が主体(主語)となる。この教育をどうしたらよいかという議論よりは、生徒主体(主語)の”学習”をどうするか、これがこれからの課題であろう。学ぶ、習う、すなわち生徒にとって”自分ごと”(Ownership)と感ずるような”学び”の改革が必要であろう。

”豊かに生きる力” を養うことが教育とすれば、豊かな”学習”ができる環境こそ21世紀への責務であろう。

理数系の教職員を多く輩出してきた理科大数学教育研究会としては、実に大事な時をむかえてるとの認知に基ずき、お互いに大いなる今後の研鑚が求められている。                        (HN)
 
     



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