次期カリキュラムの議論の前に、
そして、授業のあり方を

2003年10月
東京理科大学数学教育研究会機関紙「数学教育」第巻45巻3号 掲載

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学力低下、時期カリキュラムの議論が盛んに行なわれるなか、そのことの大切さを認めながら、まてよと思うことがある。ここで、いくつかの疑問を提示しながら、この何年か教育改革について感じていることを述べてみたい。

学力の調査方法、そして、学力とは?

 これまでのわが国の学力論議のなかで、
国際比較の達成度平均値による上位国としてそれを大事にしてきたと思う。
 国際比較は、各国委員の賛意が必要な設問であることと、記述問題が困難なことから、いきおい、韓国、日本の子供たちのように所謂受験系の問題に強い生徒には有利であろうが、このことを承知したうえで、そうした学力達成度の結果を見るべきだし、これは国内の比較テストでも同様である。
 また、大学生の学力として、講義についていけない学生の存在が表面化してきた。入学してくる学生の学力低下についていえば、大学側の選抜方式に関して大学人として自分に指差ししていくべき重要課題であろう。
 大事なのは、これからの時代に生きる生徒たちの必要な学力とは?との考え方である。よく言われている"考える力、考えようとする態度"という学習力の低下が、実は大問題なのである。この考えようとする力の低下が起きると、生徒にとっては、能力を発揮しながらの学習に結び付かなくなる。学習意欲が刺激されない。このことが、実は小数、分数が、微分計算が出来ないなどということ以前に注視していかなければならないことであろう。さらに、この憂慮は理数系の教科でけではなく、学校教育全般の問題である。
 
 こうして考えると、学力の平均値の維持というよりは、学習意欲のある生徒たちは天井知らずに伸ばせる教育環境を考えないないがぎり、わが国が狙う技術立国、人材立国による国際競合進出は停滞するばかりである。すなわち、これからの指導者に求められる力量、資質も違ってくる。

学校教育と生徒たちの潜在能力

 一般に、人間というものは30年、50年という短い年月で、それぞれの潜在能力は退化もしないが、進歩もしないと言えよう。人としての本能も、習性も然りである。言えることは、社会の変化に対応していくことは避けられない。その対応が、表層的な人間の行動を左右し、それが云々されるわけである。学力低下も考えようとする意欲低下の現象もそうした表層的な能力の表れ
であろう。
 教育で大切なのは、生徒たちの本来もっている潜在能力を如何に引き出していくかが鍵となる。この点は学校教育が始まる前、家庭での教育が、実はたいへん重要なのは云うまでもない。

 先日、愛知日数教大会の開会セレモニーのアトラクションで、県立岡崎高校のコーラスが会場を埋め尽くした聴衆を唸らせた。世界合唱コンクールで金メダルを2年連続という実力である。 
 コーラス隊の生徒たちの音楽的能力と発声、指導者である先生の構成力と伝授による能力の引き出しに感銘を受けた。高校生活3年間という短い期間のなかで、あれほどに音楽性豊かな表現が、高校生に出来るのである。まさに潜在能力の凄さといえる。
 古今東西、数学力を発揮し始める年代は10代の後半からといわれている。まさに高校生である。数学オリンピックという機会があって、世界の高校生が競っている。国別の団体戦もあろうが、個人の力量がその基となろう。これとは別に、毎日の授業のレベルでよいのである。生徒たちの潜在能力がいかんなく発揮される授業というものが存在する筈で、実際にいくつかの例を知る。くだんの音楽の先生のように、数学の指導者としての使命で大切なのは、授業をとおして生徒たちの潜在能力を引き出すことが求められよう。学習が楽しく、感動を呼ぶ授業の仕掛けの大事さを、あの秀逸なコーラスは示唆してくれた。この仕掛けを狙ったかどうかは別として、式典を企画された先生方に敬意を表したい。ある意味で、数学教育界には強烈なパンチであった。 
 
学校教育以前に考えること

 先にふれた学校以前の家庭における教育であるが、これは、学校教育の改革ではどうすることも出来ない。社会的な問題として改善必須事項である。少子化の進む中、子供たちには3つの財布があるという。子供とはいえ人間、その本能から彼らは行動し、要求する。これがOKならば次はあれという具合である。どのような状況だと想いのものが手に入り、どのような状況だと手に入らない。そうした状況判断に長けている。両親は勿論のこと周りの大人たちにスマートさが求められる。子供と大人との関係において、なにも物質的なことだけではなく、精神的にも大いなる影響を落としている。精神的に普通に成長できずで、20歳を超えてからからも母親をたよりにする大人が存在し、それを許してしまう親もいる。経済的に貧しかった時代には存在しなかったようなことが多く起きている。社会の変化がゆえの現象である。

 親への要求で満足感に慣れた子供たち
が学校に入ってくる。自分の味方である両親と、入ったばかりの学校の先生のどちらの云うことが正しく、守らなければいけないことか、彼らはどのように判断しているのだろうか。
 最悪なのは、「そう、先生にそう云われちゃったの。マキちゃんの考えのほうがママはいいと思うけどね」というような例である。世の親たちに大きな声でお願いしたい。子供を学校へあずける親として、先生の敬意をそぐような言動は是非つつしんで欲しい。
 「これをしなさい」「...はダメよ」で育った子供たちである。加えて、親切に一つひとつをガイドしてくれる先生に何年か面倒をみてもらったとする。自分の思考から判断することを、高校で、大学で急に求められたとしても、彼らは単に途惑ってしまうだけではないだろうか。
 教育を考えるとき、その基盤である社会の変化、慣わしに目を向けない議論はそれこそ空しい机上論に陥ってしまう。

 「理数研」の場合、教育学部という存在ではないが、優秀な数学の教員を数多く輩出してきたという歴史があり、現在でもそのポジションニングは変わらない。理数研としては、上段で述べたようなことは関係ないとの立場もとれる。しかしながら、"数学とそのカリキュラム、授業法、教材"ということだけでは済まされないのが、現在わが国が抱えている問題であることから、是非、関心を喚起したいとの主旨である。

もう一つの社会事情

 子供たち、学生たちが、考えようとしな 
い、判断できないという風潮は、家庭環境だけではない。彼らが何年も過ごしてきた彼らの時間の使い方、関心にもその遠因がある。"本を読まなくなった"、"テレビを観る時間が長い"、"ゲームに没頭する"、"親切過剰ともいえるPCのソフトウエア"、"工夫のし甲斐のないプラモデル"、"完全なキットが用意され、組み立てれば動き出す教育用ロボット"、"見栄えを大事にする風潮から女高生の化粧"、"その影響から男子生徒も茶髪にピアス"。数え上げればキリのない親切過剰とカッコ良さ重視の社会環境である。このなかから幾つかの事象を次項で取り上げてみたい。

考えなくてすむ環境

 人間は思い、考えるとき、無意識ではあるが3つの象限で対処している。
 筆者が15年程前から考えている人の習性に関する考察である。図1に示すように、人間のインテリジェントな活動には、3つの象限がある。彫刻家ロダンの「考える人」の例を示すまでもなく人は"こうべ"をたれて思考にふける。学習においても水平面(机上面)でものを考え、解を探す。あるいは原稿の執筆中、パソコンの画面を眺めながら仕事は進行する。これでいいなと思ったとき、人はその原稿をプリントする。で、そのプリントした紙を水平に持ち、あるいは机において読み返してみる。そして、必ずといっていいほどに、修正することになる。垂直画面のPC画面では、なかなか気が付かなかったことを考えることになる。
 ビジネスの世界でいえば、この机の水平面は思考と決断の象限である。プレゼンテーションのスクリーンでは決定は出来ない。後に述べるがこの垂直の画面は"観察"象限であり、"思考"の象限ではない。そこで、その会議の責任者は、ハードコピーを用意させ、自室の机に持ち帰る。いろいろ考えたあとデシジョンの承認印を押すことになる。

 数学の問題を解いている過程で、業務で思考中に、あるいは原稿の構成に息詰まった状況で、人は斜め上をおぼろげながらに見つめ"想う"ことになる。溜息が出る場面である。そうしたときに、ふとアイディアが浮かぶことがある。そして再び、水平面(机上面)に移りその"想い"を思考に進めていく。この斜め上の面が"想像、想い"の象限である。
 ここで垂直面についての役割をみてみる。元来、人間活動において垂直な面は感性の発露の象現であった。太古の時代の壁画はまさに人間活動の記録象限である。この象現は同時に"観察"と"エンターテイメント"の世界。"観察"の象限は、教室の板書として、あるいはプロジェクターのスクリーンとして利用されている。この"観察"であるが故に、そこには深い思考は起きにくい。大勢が参加する会議では最適な象現となる。参加者はそれぞれ違ったことを考えている場面で、少なくともスクリーンは情報の共有を助けてくれる。参加者が机上で自分の手元資料をみてしまったら、それぞれ勝手な思考に耽ってしまう。授業の板書もまた然りである。観察し、その結果をノートに取る。でも、それだけでは学習にはならない。先生としては、板書で解説し「わかりましたか?」と投げかける。生徒は何となく理解したふうで「わかりました」と答える。これが繰り返される。よく観られる授業風景だ。しかし、この観察の象限で、受講しノートをとる行動で、はたして思考が起きるかというと、大いに疑問である。やはり、授業の場面場面で生徒たちを思考に向かわせる授業の仕掛けが必要になろう。

 先述の社会現象で、テレビの観過ぎは、エンターテイメントと観察の最適象限であり、思考を助長させない。
 ゲームに没頭しているとき、なるほど、そこそこにデシジョンをしているのであろう。しかし、決断というよりは、ゲームのスピードに合わせた反応であり、その速さの訓練にはなっても、思考からは程遠い。

 "観察"の象現の好例でパソコンによる教育用ソフトの画像がある。数理の視覚化には最適である。しかし、このコンピュータのモニターというしろものは、実は、人間の思考活動に反して存在してきている。人々は、本来の人間の習性に逆らって垂直面で思考を強制させられてから、早くも30年以上経とうとしている。こうも長いと新しい世代の人からだんだんとこの強制に馴らされてきているかもしれない。観察に最適な象現で思考を余儀なくされている。あるいは、十分な思考をせずに過ごしてきてはいないだろうか。

授業のあり方、仕組み方

 生徒たちの本を読む時間は極端に少なくなっているという。読書の姿勢は典型的な思考の姿勢である。水平面に近い象限に、こうべを落としての姿勢となる。思考を助長する。
 文章を書くにはもちろん思考がもとにある。思考の結果を文章にまとめる、このことは、国語の作文に頼ってばかりはいられない。数学においても、是非、生徒たちに考えを文章にする癖をつけさせたい。数理を数式で綴る過程は立派な文章訓練であり思考訓練である。 
 今の社会情勢と新世代の生活習慣を思うと、考えようとする状況が用意できてないことは実に明白である。

 それでは、学校教育のなかで、考えようとする状況をどのように創出していったらよいのだろうか。もちろん、全教科に跨る責務であろう。すくなくとも理数研のメンバーは数学か科学であろう。その数学は、実は素晴らしい思考を培う教科なのではないだろうか。
 
 ノートとペンで思考は進む。そして、板書、さらにはワークシートのプリント。これで数学の授業は成立してきた。もちろん、知恵と熱意ある先生方は、それぞれの工夫で、いろいろな材料、道具で授業を仕組み、生徒たちの思考、気づきを促す道具立て、授業設計をしてきた。あるいはPC活用で数理の視覚化、シュミレーションで生徒たちの理解を促してきた。たまに使うパソコン教室での生徒たちの目の輝きが忘れられない先生方も多かろう。要は、考えることから遠ざけられてきた生徒たちである。その生徒たちへ思考と、気づき、感動の奉還である。
 一過性の思考と感動では意味は薄い。小さな感動が、次を考えようとする切っ掛けに、そして少し大きな感動を呼ぶ。そのことが原動力になって、さらに思考を体験し、より大きな気付きと感動を持たせる授業が期待される。こうしたサイクルを創出する授業を進める先生方を知る。東京で、大阪で、岡山で、北陸で、プサンで、ソウルで、米国の多くの都市で。
 そうした先生方は本人が数学を実に楽しんでいられる。顔が、背中が輝いている。生徒たちは敏感である。テレパシーが飛ぶというか、伝播するらしい。なるほど、授業というのは、まさに、人間と人間のかかわりであり、葛藤でもあり、共有体でもあろう。
 
 そしてテクノロジーの時代である。数学の先生でPCを持っていない人は極少数になっている。教科「情報」が始まり、生徒たちの間でインターネットは常識。
 なにが何でもテクノロジーというわけではない。学習欲、気づきの機会の創出、考えようとする契機を助長するテクノロジーの活用が各国で盛んである。数学的活動をともなう学習である。わが国は不思議とそうした授業改革に遅れている。言い換えれば、気づきの機会、考える機会の助長に遅れをとっている。
 そのなかで、高専の先生方の研究グループ「TAMS」がスタートした。学習指導要領に頼る必要のない環境、より高度な数学を扱っている。彼らが命名した"数ナビ"という名の数式処理ソフトがビルトインされたグラフ電卓TI-89, TI-92 を使っている。数学をナビゲーションするとの意のその道具が学生たちの学習意欲のみならず、数学学習の感動を呼び起こしている。ノートが置かれた同一机上面で使われるコンピュータ・パワーである。

そして、行政も・・・・
 
 教育行政がなし得る重要な役目がある。
 教師というプロフェショナルに他の人でも出来きること、すなわち、学校管理や庶務系の仕事をさせざるを得ない学校組織体の現状の改革に、どれだけの注力ををそそいでいるかが問われることになろう。
 先生方の総時間の何%がそうした学内一般業務に使われているのだろうか。こうした状態で、教材開発、授業準備、一人一人の生徒の進展を記録する時間が果たしてあるのだろうか。社会資本である教育費の不効率な使途は改めるべき重要課題と筆者は強く感じている。
 企業における経営効率を全てよしとするわけではない。効率ではなく、質の向上を願うものである。
 プロでなければ出来ない仕事以外の仕事に多くの時間を費やしていることを見過ごしていることは由々しき状況といえよう。何十年にもわたる教育界の慣習はなかなか変えられないことは理解する。しかしながら、大学における独立法人化への移行のなかで、そうした教育の質の向上は重要課題になってくる。また、教育特区、独自判断の地方行政のパワーも台頭してきた。ただ悲観し、言い訳をしている時期は終わると信じている。

 時間数の復元、カリキュラムの整備が整ったとしても、社会の教育に対する取り組み、家庭教育、考える面白さをとり戻す授業改革が起きない限り数学教育は良くならないと感じている。

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