「数学学習”体験”の大切さ」
- 企業の立場からの視点と、隣国の教育改革の様子 ‐

根岸 秀孝                                        
東京学芸大学数学教育研究会 2003年5月24日講演原稿 

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「どうして数学を勉強するのですか?」
 
 この問いに明快に答えることは易しいことではない。10人の先生方からは10の答えが得られよう。どれもそれぞれに意味があり大事な答えであろう。この問いに対し、生徒たちがなんとなくでもよいから納得する答えを用意しておきたい。さらには、その答えで学習の動機付けになるような答えがあれば、是非、他の先生方と共有していただきたい。逆にいいかげんな答えで生徒たちの関心を削ぐようなことは、是非、避けてほしい。


「僕は、私は、文系それとも理系?」

 この問いも気をつけなればいけない問題を含んでいる。担任の先生、進路指導の先生、両親、友達同士、そして本人、このことは必ずや話題になる。何をもってして、文系・理系の区別をつけるのであろうか。数学の点数がその主たる理由であることに疑いはない。果たして数学のテストの良し悪しで、潜在能力をも含めた重要な進路判断を決めてしまっていいのだろうか。
 この3月、米国ナッシュビル市で開かれたT^3 International Conference の招待講演者、NCTMの会長Dr. Cathy Seeleyのスピーチは興味深いものがあった。

  [ Crystal and Calculator ]
Cathy Seeley さんがかつてAlgebra のクラスを持っていたときに生徒だった Crystal という女の子の話。彼女は数学的感覚をもち、よく工夫をし、考え方、気付きも結構なものだった。本人も数学の勉強が嫌いではないのだが、一つ問題があったのは、彼女は分数の計算が不得手で、このことが数学学習に関する彼女の大きなわだかまりだった。そこで、ある日、教室の後ろにおいてあった、分数計算が出来る電卓を彼女に与え、「分数が出てきたら使ってみたら」。
その後、彼女は分数計算のジレンマから解放された様子。そして、一年近く経った彼女の数学の理解度と成績、意欲は相当な伸びを示していた。
“数学学習のなんであるか”を考えるとき Crystal のことを思い起こすとのこと。
 
[ A business-man - Robert ]

ある飛行機でとなりあわせた中年のビジネスマン Robert との会話で、Seeley さんが数学教師であることを話したところ、彼の学生時代の勉強のことを思い起こさせることになった。彼は学生のころ、掛け算が大の苦手で、数学を勉強するときにはMultiply Table(と言っていたので、九九の表)を手元においておかなければ、不安でしょうがなかったとのこと。彼にとって、それは忌々しい思い出だったという話。で、くだんの紳士は、大学院では物理を、ドクターコースでは電子工学を修め、現在、大手の半導体企業の上級管理者。

 この2つのエピソードに共通するのは、Seeley 氏は聴衆の数学の先生たちに“数学の学習とは?”ということへの大事な示唆を示し、「幅のひろい数学の能力を大事にする数学教育を考えましょう」との呼びかけだった。

 話しは戻って、この文系・理系という振り分けが、社会資産である多くの潜在する人材のミス・ユースにつながっている。技術立国のわが国にとっての重要な問題となる。筆者が経験した具体的な例として;
 ある設計会議の場で、懸案の解決策(コスト、性能、品質等の要求にかなうアイディア)が求められていた。製品開発主査、モジュール毎の設計責任者、原価計算課員、デザイナーが出席している。設計者の多くは国立の上位大学工学部の出身、原価計算の課員は某私立大商学部の出身。設計者たちは、いわゆる典型的な理系、 コスト計算のプロは文系の出ということになる。この会議で皆がうなった素晴らしいアイディアを出したのは設計のプロではなく、なんと文系のA氏。このA氏、中学校では数学を楽しんだが、高校時代に何らかの理由で数学につまづいてしまう。そこで、文系と自認。ところが、彼の設計センスは並大抵ではなく、まさに理系の本流を通ってきた設計陣をうならせている。よくありそうな話であるが、要するに中学、高校時代の数学の成績というものが、実際の個々人の潜在能力を必ずしも反映しないという事実である。
 これまで以上に科学技術の人材が求められるわが国で、この文系・理系という振り分けは気をつけなければいけない常識といえる。子供たちの羽ばたきを途中で差し止めることになってしまうこの概念は問題である。


「数学嫌いが多いのは仕方がない。数学ってそういうものだから」
 
 何人かのよく知られた数学者、数学教育者の口から出た事実の言及である。もちろん、将来、数学者あるいは科学者になろうとする一部の学生のなかで、数学はできる方だが好き嫌いという問題ではないとの見解を持つ学生がいる。これはこれで素晴らしい。しかし大事なのは、社会に出ていろいろな仕事につく大多数の人たちのための学校数学に対して、そうした見解をもつ数学者・数学教育者がいることは由々しい状況といえる。授業の進め方の工夫次第では、数学の学習は興味深く、さらには楽しく感じることのできる教科である。
先進諸外国の生徒たちはわが国ほど数学を嫌っていない。ある教育者は、「米国のように、しっかりとしたレベルの数学をやってない国では、数学嫌いが少ないのは理解できる」と言及した人もいた。
さて、生徒たちがいったん“嫌い”と認識した以上、その先“好き”に転じる可能性は極めて少ないといえる。嫌いと思いながらの学習のつらさのなかで、はたしてどの程度自分から進んで学習する態度が生まれるだろうか。
数学の先生方へのお願いである。できるだけ“数学嫌い”の生徒を増やさないでいただきたい。


「数学学習の“体験”って?」

昨今の文系新入社員の行動を観察して気が付くことがある。私立大文系出身で高校時代に数学から離れた人たちだ。
 何人かの企業人との会話が情報源で、根拠が充分とはいえない言及となってしまうが、ご容赦を;
 文系新入社員に共通して云えることで、一部理系の新人にも当てはまるのであるが、昨今、明らかに欠如していることが気にかかる。如何なる業務の場面でも、その基本となる、あるいは仕事の常識とも云える“素養”の欠如が顕著に観察される。
 多くの情報が錯綜する状況下において、どのような業務においても、求められるのは物事の整理、統合、構築、判断である。多量な情報整理とその活用には、それぞれの性質によるグループ分け、重要度の抽出と順位付け、それぞれのタイミングの意味、そしてその判断が求められる。こうした枠組みの仮説、検証、判断の能力が業務の“素養”である。多くの仕事がマニュアル化されてはいるが、それぞれのアクションにはそれなりの理由がある。このことに対する気付き、疑問、理解も“素養”である。今進行中のアクションの意味付け、他との関連性に鈍感であっては困る。意味のないこと、間違ったことに気付かずその仕事をし続ける。最悪の場合は、昨今話題になっている企業犯罪にも結びつくリスクが潜在する。 
 何人かの企業人が同意する結論は、数学学習の“体験”の欠如が目に見えないところで大事な素養の低落を起こしているという見解である。「普通の生活をしていて、二次方程式など一度も使ったことはない」というようなコメントのことではない。数理そのものを活用する仕事というものはある程度限定される理数系基盤の業務である。一般の仕事の中で使われる“素養”、それは数学学習の“体験”があってはじめて無意識に身につくものである。この素養の欠如が大問題なのである。

 では、その数学学習の“体験”とはいったいどう考えたらよいのだろうか。「授業は受けました。単位も取りました」では充分な体験とはいえない。数学学習を経験したかもしれないが、“自分が身をもって経験すること(広辞苑)”= “体験”にはなっていない。では数学学習で“体験”といえる条件は? 先ず、学習が“自分ごと”になっていなければならない。
「勉強しなさい」、「これこれの演習をいつまでに・・・」、「これは覚えておくこと」、そして、その結果がテストに表れる。これを体験と筆者は呼ばない。学習が自分ごとになるということは? ある時どうしても引っかかることがあり、その晩は何時間も試行錯誤を繰り返し、それでもすっきりしない。ところが、その数日後、授業のなかで目から鱗が落ちたようにすうーと理解できた。「なーるほど、そういうことか」。この納得に価値がある。体験したことになる。自らの関心と熱意で、ある問題に挑戦する、そうした体験ができるように先生は生徒を“案内”してくれる、そういう学習が大切であり価値ある体験になると考える。先生からの“問い”に応えて、そのことに集中し、いろいろ試し、ある種の規則的なことに気付く。発見する。これはまさに体験である。こういう状況をつくる先生方の“仕掛け”が大事になってくる。この仕掛け、言葉は悪いが“ワナ”といってもよいガイドが肝心となる。こうした学習をする生徒は、数学に対するイメージが変化し、「面白い」から「嫌いじゃないな」、さらには「どちらかというと、好き」という態度の変化が期待できる。嫌っていて、強制される学習では“体験”にはならないと考える。


「誰が数学を大事にしている?」
 
 国策として理数教育に取り組んでいる国々がある。わが国では技術立国を唱えながらも、数学教育にたいする国策といえるものは見当たらない。わけの分からない(筆者の見方)教育の情報化(ミレニアム・プロジェクト 等)がある。PCと、プロジェクターをインターネットでつながる全教室へ。またしても関連企業が国家予算を使う、ハード先行ともいえる匂いが強い。さらに、放送局、大学を巻き込んでのコンテンツ開発、「わかり易い授業を、教材を」との狙いで多額の予算が、さらには民間企業が動き出す。“わかり易い”を大義名分にして、間違った方向に行かなければよいがと憂慮を感じる。“親切過剰”、“与えすぎ”の教育に陥らないでほしい。このプロジェクトに対する文科省が提示しているいくつかの書類をみても、教育そのものの情報化、授業における情報化、等に対するヴィジョン、価値、狙いが、もう一つはっきりしない。

 韓国のICT (Information Communication Technology in Education)施策にあるヴィジョン、狙いと較べるとわが国のそれは、あまりにもムードに流れされたような計画内容に落胆を覚える。 
 韓国の“ICT教育白書”といえる記述のなかから引用する。

ICT 時代に入る前の学習は;

Giving / Taking of Knowledge between Teacher and Student


教育のICT 化は;

  Knowledge being Conceptualized as something Generated, or Constructed by Each Individual. This changes the Role of Teacher / Student.
Student is no longer a Passive Recipient of knowledge 
– Student Centered Education 


 ICT時代の生徒たちにはこうなって欲しい;

Creative Knowledge Producer
Self-Directed Leaner
Effective Information Processor
Effective Problem Solver
Responsible User of Information 


 わが国の「ミレニアム・プロジェクト ―教育の情報化」の書類にはこうした記述が見当たらない。数学教育に関して韓国では、プサン大学校・師範大学を中心にプサン市教育庁を巻き込み、教師研修、パイロット校を設定し、テクノロジー活用の授業研鑽が起きている。

 中国における教育改革には目をみはるものがある。産業界ではその改革が著しいが、そうした動きが教育にも起きている。数学におけるテクノロジー活用の授業改革もスタートした。特に大都市、北京、上海では、教育委員会、教師研修所、師範大学が中心となり改革が進んでいる。これまで、教科書は国営出版社ともいえる一社が国定教科書を出版していたが、これに変化がおき複数の出版社が競合していくと聞く。

 現在、いろいろな国で起きている数学教育の改革では、相当な部分が共通する内容となっている。すなわち;

  ・社会生活における数学の大切さの理解
  ・数学的見方・考え方の養成を大事にした問題発見力、解決力
  ・身の回りの現象を題材にする学習を通し、数学への関心高揚
  ・これらを実現するためにテクノロジーを積極的に活用

 中国の学習指導要領の英訳をみると、上述の共通点のもと、カリキュラムの狙いは明快だ。 これまでの講義中心の知識伝達(Teach)から、生徒自らが学ぶ場(Learn)をどう設定するかという改革といえる。数学教育で、質の高い教育とは。生徒の学習を中心とした授業とは。テクノロジーでそれをどう実現していくか。グラフ電卓を道具として活用する教科書も発行された。
 一昔前、日本の教育行政、システムに関心があったようだが、昨今は、米国、カナダ、欧州のそれをたいへん熱心に参照している。日本を飛びこして。産業界と同様に、この国の進展はまさに、“ジャンプ”である。

 翻って、わが国では、スーパー・サイエンス・ハイスクールなるモデルスクール政策がある。結構なレベルの文科省予算を用意しての行政イニシアティブではある。しかし、大手広告代理店による一過性の企画イベントともいえるノーベル賞受賞者招聘のシンポジウムで、その予算の結構な部分が消費され、各学校へ配布される予算が削られてしまったという。そのシンポジウムに参加できる一部の関係者への恩恵と、50校を超える多くの高校生それぞれへの恩恵と、そのバランスと価値判断は? なんとも情けない状況である。

 私立大学の文系学部では、一部のレベルの高い大学をふくめ、入学試験に数学を受けなくてもよい時代である。高校卒業資格となる最低限の数学を履修し、そこそこの点数でも出席さえしていれば単位が取れる、と生徒たちは知っている。こうした生徒の前で授業を進めてきた先生たちは実に気の毒な存在だ。関心の薄い、あるいは嫌いな教科で、大学入試にも必要のない教科である。充実した授業などは期待し難い状況のなか、何百万人かの生徒たちと先生が時間を費やしてきた。実に由々しき社会資産の無駄遣いである。生徒の時間、教師の時間、学校予算、行政予算、教科書のコスト、どれをとっても大事な社会資産である。
 
 学習指導要領への批判、学力低下への憂慮という騒がしさのなかで、数学の大事さを真剣に唱え、行政が、学校が、産業が、市民が、みんなが関心をもたないかぎり、数学教師という専門家は浮かばれない。


「数学教育で、これから何を大切に?」

 結論は一言! 

先生方、是非、“数学嫌い”の減少に命をかけてください。


                               (ねぎし ひでたか・米国Texas Instruments 社)
 
 

 

     



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