「数学の授業が変わってくる」
“ グラフ電卓を通してみた他国の数学教育・日本の数学教育 ”

根岸 秀孝                                        
「じっきょう数学資料」 46号 2003年2月 ”実教出版社”発行 掲載原稿 

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1.数学の大切さの社会的認知
 他国との比較で、わが国では数学の大切さの認識が低いのではないかとの言及、事実が懸念される。多くの私立大学文系学部入学試験に数学が課せられなくなって何年も経ったわけだが、これは実に由々しき問題といえる。
 こんにち、中学・高校数学の必須時間が減少し、その内容はさらに軽くなっている。しかも、受験に必要ないとなれば、その結果、生徒たちの数学学習に対する態度の低下を止めることは困難といえる。さらに、問題視したいのは、“数学嫌い”の生徒を毎年送り出している現場の責任は? 勿論、心ある先生方のもと、数学の面白みを感じている生徒たちも存在し、熱心に授業の工夫をしている先生方も多いことは承知している。しかしながら、半数を超える生徒たちは、関心が薄く、あるいは嫌っていて、大学入試にも必要のない教科である。充実した授業を期待することは難しい。この状況のなか、何百万人かの生徒たちと授業をしている先生方は実に気の毒に思う。さらに、社会資産の無駄使いに他ならない。
 「社会に出てから数学は役に立つのか?」との問に明解に応えられることが、数学教育に携わる我々の責務であろう。よく耳にする言及に「論理的思考を育む」というような硬い言い回しがあるが、これでは、昨今の若者への説得力とはならない。では、どのように応えていったらよいのだろうか。数学の“学習を体験する”という見方を大事にしたい。数理を理解し、成績を上げるということとは違い、関心をもって学習する機会を味わう授業体験が望まれる。社会生活のなかで必要な基本的 “素養”が、数学の学習を通して、無意識のうちに身に付くと考える。その素養とは? 
多くの情報が錯綜する状況化において、如何なる仕事であっても、求められるのは物事の整理、統合、構築、組み替え、それと判断である。多くの情報の整理とその活用には、それぞれの性質によるグループ分け、重要度の抽出と順位付けが求められる。こうした枠組みの仮説、検証、判断の能力が仕事の“素養”である。昨今、業務のマニュアル化が盛んだが、それぞれのアクションにはそれなりの理由がある。このことに対する気付き、疑問、理解も“素養”である。今進行中の仕事の意味付け、他との関連性に鈍感であっては困る。数学学習の“体験”が“素養”を育てるという考え方である。




2.新しい授業のあり方
 従来の典型的授業、すなわち、数理の解説、理解、演習、テストというスタイルは、教師側に授業の進行とその主体性があり、生徒たちは受身の状態に陥り易い。このことから脱して、生徒たちの自主的学習、探求の大事さを各国のカリキュラムは説いている。その共通するガイドラインは実に見事といっていいほど類似している。列記してみると;

社会生活における数学の大切さの理解
数学的見方・考え方の養成を大事にした問題発見力、解決力
身の回りの現象を題材にする学習を通し、数学への関心高揚
これらを実現するためにテクノロジーを積極的に活用
   
ここで重要視したいのは、学習の主体者であり利益享受者である生徒の活動を促進し、そうした機会創出を工夫することが大事である。“気付きと学びの仕掛け”である。この解決策の一つとなっているのが、テクノロジー活用の学習である。“グラフ電卓とよばれ、教育用に特化され米国で開発された携帯コンピュータである。このグラフ電卓活用の授業が世界の国々で目をみはる勢いで進展している。
 先生方の間でよく耳にする言葉に、「大学受験が変わらなければ……」ということがある。このことが理由のひとつなって、わが国では大事な授業改革に遅れをとってきたと観察できる。そうした状況でも、授業改革の挑戦をしている学校も多々存在する。

大阪にある私立で上位の進学校では素晴らしい体験をしている。また、東京の国立大学付属校でも成果をあげている。岡山の付属校、公立校でも。そうしたテクノロジー活用の学習を体験した生徒の感想文のなかから、2,3その声を紹介する。 「まるで自分が数学的大発見をしたかのような気分が味わえました」、「いろいろな人のレポートを見て、みんなすごいことを考えてるなぁと思った。どうしてそうなるのかなを考えてみたりしていた」、「今まで感じたことのなかった数学(考えること)の楽しさを始めて知りました。メチャ充実感でいっぱいです」。 彼らは授業のなかでTI-92という数式処理‐Computer Algebra System- をもつグラフ電卓を使っている。そして、トップレベルの大学に進学を果たした生徒たちである。
 もう一つの好例は、いわゆる学力でいえば底辺に属する高校の成果もある。「せんせー、これって数学?面白いじゃん」、「今日は例の機械 使わないのー」。ここの先生は、「授業に生徒全員が顔をそろえてくれることで嬉しいんですよ」と言っていたのが忘れられない。学力が上位であれ下位であれ、生徒の学習に向かう態度が肝心である。上述の生徒たちは夫々に学習を自分ごとに感じている事実、すなわち、主体的な態度で授業に臨んでいることが素晴らしい。



3.韓国で、中国で
 受験競争に関して諸問題を抱えている隣国の韓国では、わが国の教育の問題点との類似が多く観られるが、数学学習、理数教育の大切さへの認知は依然高い。大学入試には数学が必須で、理系志望の生徒たちの選択数学教科のレベルはかなり高い。エリート校と云える科学高校でも、グラフ電卓導入の試みが始まった。
 第7次カリキュラムでは、先に述べたような各国に共通な狙いを踏まえ、テクノロジー活用を説いている。中学の新教科書では、テクノロジーの活用実践に関してまだ充分とは言えず、副読本のかたちの教科書が望まれている。現在、プサン大学校師範大学を中心に20校ほどのパイロット・スクールが選定され、実験授業と平行して、教材開発が進行している。将来の教科書のモジュールとなる。
 
 昨今、ソフトウエア技術者の躍進がめざましい中国でも新しい教育方針のもと、新指導要領が定められ、これにむかって、地域教育委員会、師範大学を中心に、改革が進行中である。カリキュラムの狙いは明快だ。 これまでの講義中心の知識伝達(Teach)から、生徒自らが学ぶ(Learn)場をどう設定するかという改革といえる。数学教育で、質の高い教育とは。生徒の学習を中心とした授業とは。テクノロジーでそれをどう実現していくか。北京、上海の両大都市を筆頭に、教育委員会、師範大学、教師研修所(TTC)のリードのもと、グラフ電卓活用が教育上どのように価値があるかという研究があり、各地ともに約30−50校をパイロット・スクールとして選定した実験教育が進行している。そして、2003年春から使われる中学の教科書が出来上がった。グラフ電卓活用を基本とした最初の教科書となる。人民教育出版社が発行する国定の教科書である。ここで大事なのは教師研修という。
 一昔前、日本の教育行政、システムに関心があったようだが、昨今は、米国、カナダ、欧州のそれをたいへん熱心に参照している。日本を飛びこして。産業界と同様に、この国の進展はまさに、“ジャンプ”である。



4.グラフ電卓活用授業の先進 - 米国で
 少々古い話で15-18年ほど前になるが、PC活用による授業改革が、PCの設備・保守経費、コンピュータ教室への移動を伴う物理的理由から、その実践は暗礁に乗りあげることになった。この時期、オハイオ州立大学数学科のBert Waits, Frank Demana両教授のもと、教師研究グループがグラフ電卓にその解決策を見出した。Power of Visualization に効果を期待したグラフ電卓活用の数学授業の始まりである。研究グループでは、生徒との回を重ねる授業の結果、教具として、多々改良の必要性を強く感じた。その協力を得るためにいくつかの電卓メーカーの門を叩くことになる。そして、唯一耳を傾けたのが米国TI社で、最初の教育用に特化されたグラフ電卓TI-81が1990年に用意された。すなわち、教育者自らが開発に携わった教具である。「コンピュータのパワーを全ての生徒の手に」との想いであった。それから10年以上たち、米国の高校、AP-Calculusの授業では必須の道具となり通常のクラスでも著しく浸透している(6割を超える高校3年生が自分のグラフ電卓を所有)。NCTMのスタンダードでは6つのプリンシプルのひとつにテクノロジー活用の必要性を説いている。 
 昨年の発表になるが、SATの数学のスコアに改善が確認されたという。大学進学を望む高校生の全国テストであり、ここ数年の受験者数は増加している状況下での朗報である。



5.ヨーロッパでは

 もともと革新の体質を持つフランスで関数電卓の授業利用が進んでいた。教育者の要望のもと、学習専用として最初のTI社製関数電卓が生まれたのが1985年のことである。その後、米国の進展につれて、グラフ電卓が活用されるようになる。現在では、英国、北欧の3国、ポルトガル、オーストリア等々の国々で盛んに使われ、最近では、保守的なドイツの州でもいよいよ本格的な利用が始まっている。



6.これから先、どうなるのであろうか?
 一般的にわが国の行政、公的機関の“性”なのだろう。「改革よりは改善から」、「全員のコンセンサスをまず」など、さらに自己保全策がその流れとなっている。企業活動でそうした態度でいると、損益に直接関係する、いわんや企業存続に影響する。
 教育界でもそうした保守的状況では、改革を望むのは困難かもしれない。むしろ、従来の仕組み、機関に左右されることのない形で、しがらみを一旦断ち切った状況で、いわゆる、“zero-base”からの再スタートが望まれる。「みんな一緒に」という発想ではなく、学校単位で、それぞれが、“zero-base”の立場で“数学教育とは?”“数学を学習する意義は?”“教師の役割は?”という問に対して、それぞれの立場で議論をし、“その実践はどう進めればよいか?”との答えを出していかなければならないであろう。
 また、何も“改革”とまではいかなくても、最低限、「数学の授業が面白い」と感ずることが出来る工夫が求められる。群馬県の数学の先生の言がある。ある生徒が音楽の授業について、「出来ないけど授業は好き」と言ったそうだ。この一言は彼にとってたいへんなパンチであったという。それ以来、彼の努力は、如何に生徒たちが授業を楽しく感じながら学習出来るかという挑戦である。



7.大事なことは・・・・
 数学授業の改善で生徒が関心を抱くために重要なのは、学習そのものが“自分ごと”に感ずるか否かの“仕掛け”、授業運営であろう。生徒たちは潜在的に自分で何かを作ることに喜びを感ずると信ずる。そうした自らが活動する機会が用意されるべきである。学習者自身が主体的に“作っていく態度”を育む教育が望まれている。生徒が考え、試行錯誤し、自ら作る機会を奪ってしまうことにもなる“親切過剰”な教材、学習の進め方では本末転倒である。“分かり易い”を大義名分に用意されるWebベース、マルチメディア等、これらの教材には“与え過ぎ”の懸念を感じる。
 ここで、一つのニュースがある。ある教科書出版社が新しい数学のテキスト6 冊を刊行した。テクノロジーをフルに活用した最初のものとなる。“zero -base”の革新的な構成、生徒の主体性、活動を大事にしたが故のユニークな内容となり、文科省の認定は受けてない。筆頭執筆者の気骨と”想い”に敬意を感ずる。
 
 
“テクノロジー活用に解決策を見出した先進の国々が新しい数学教育への答えを出している”

(ねぎし ひでたか / Texas Instruments E&PS)

 

 

     



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