数学教育におけるHandheld Technologyの意義と展望
<各国の動向から見えてくるテクノロジー活用の教育的意義、価値>



第34回日本数学教育論文発表会 2001年11月23日 於 東京学芸大学  口頭発表論文の草稿
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 科学技術の国際的優位性への憂慮、学力の低下、教育危機等が議論されているが、その対象となる技術研究員、生徒、学生、教員、教授、行政人、いずれの場合をとっても、この10年‐20年、我々の資質自体が退化したわけはない。
人間は50年−100年でそう簡単に進化、もしくは退化するわけはない。それでは、どうして憂慮されるような事態になってしまったのか。そこには人間の行動習性が関係していると考えられる。人は感動、パッション、意欲という動機をエネルギーとして更なる研鑚をつむ。こうしたエネルギー注入を怠ったまま、何年も経てしまったのではないだろうか。本稿では、数学教育における動機付けのエネルギー、改革の‘触媒’ともいえる“テクノロジー”という道具活用の意義、情報化との関連、また、それがこの何年かの間にどのように進展してきたか、さらにその将来展望を考察する。


1.過去の進展
CAI (Computer Aided Instruction) が盛んに研究されていた14、5 年前、関数学習のためのMaster Grapher とうソフトウエアが米国オハイオ州立大の研究グループで使われていた。このツールとしての優位点はPower of Visualization、すなわち視覚化の教育的価値である。関数グラフを増減表から手書きで行っていた時代、グラフが描けることが学習目的の一つになっていた。本来は、グラフが見えてきてから、考察、操作、探求が起き、数理の理解が進展するという教授法が望まれる。このPC活用の授業は生徒達の間で著しくポジティブな反応が得られ、その教育的価値が認められた。ところが、PCの設備経費、コンピュータ教室への移動を伴う物理的理由から、実践的には暗礁に乗りあげることになった。この時期、オハイオ州立大学数学科のBert Waits, Frank Demana両教授のもと、教師研究グループの一人が 日本製のグラフ表示付関数電卓を見つけた(1987年頃)。技術者が技術者のために作ったこの電卓が、実は、現在米国では常識ともなっているグラフ電卓活用の数学授業の始まりとなった。研究グループでは、生徒との回を重ねる授業の結果、この技術電卓を教具とする為、多々改良の必要性を強く感じた。その協力を得るためにいくつかの電卓メーカーの門を叩くことになる。そして、唯一耳を傾けたのが米国TI社で、最初の教育用に特化されたグラフ電卓TI-81が1990年に用意された。すなわち、教育者自らが開発に携わった教具である。「コンピュータのパワーを全ての生徒の手に」との想いであった。それから10年以上たち、米国の高校、AP-Calculusの授業では必須の道具となり通常のクラスでも著しく浸透している(高校3年生の64%は自分のグラフ電卓を所有)。 NCTMのスタンダードでは6つのプリンシプルの一つにテクノロジー活用の必要性を説いている。  
欧州の国々、オーストラリア、メキシコと世界各国でそれぞれの進捗が起きている。アジアでは、シンガポールは既に実験授業の段階を終え、中国では文部省、大都市の教育委員会を巻き込み、多数のパイロット校が実践に入っている。さらに教科書編纂の準備が進んでいる。韓国では、一部の大学が中心となって、文部省、市教育局から指定されたパイロット校で実験授業が始まった。この両国に共通なのは、社会において数学教育が重要視されていることである。どのように改革するかが明快で、そのための教師研修が盛んだ。
ではどうしてそうした進展が起きたのか? いわゆるPedagogical Value という視点を次章で考察する。


2.何故テクノロジー活用か?
PCであれ、グラフ電卓であれ、テクノロジーという道具がある。「さあーどう使おうか?」では本末転倒である。先ず基本となるのは「どのような授業をしたいか」である。   
TIMSS国際比較でも明らかなように、我が国の生徒たちの数学嫌いは極めて由々しき状況である。中学2年生の比較、「数学が好き、嫌い」の問いで日本の生徒は数学嫌いが52% (国際平均28%)、調査対象の38ヵ国中37番目。これは、数学教育界における“負の資産”、これを放置することは“負債の先送り”といってもよい。数学嫌い、理数離れは学力低下以上の教育界における重大問題と考える。その解決の端緒はいかに生徒の学習態度を動機付けるかにかかっている。            
学習目的の理解、動機なしには学習者の継続した研鑚は期待できない。とりあえず入学試験という目的は現在でも存在する。しかし、教育の目的の一つといえる“学習方法、面白さ”を導くことの大切さをもう一度真剣に考えていきたい。大阪、清風高校 公庄教諭の指摘を紹介する。

・教育の最も重要な目的は「人の心に火をつけること」である。
・一度点火すれば、止めても止まらない、面白さの虜となり、自分で勝手に学びだすであろう。
・そのためには「驚く」チャンスがなくてはならない。

学問探求の動機付けとして大事な「驚き」、「感動」を与える授業の大切さを彼は説いている。
ここに、「どのような授業をしたいか」への示唆がある。同様な想いは多くの教員の共有するところであろう。その解決策として、これまでの道具−黒板、チョーク、ノート、鉛筆、そして教師の熱意と工夫、これだけではなかなか実現しにくい領域がある。そこにテクノロジー活用の大いなる機会があり、実践的な解決策となってきている。関数学習で具体的にいえば;

・グラフによる視覚的アプローチ 
・式による分析的アプローチ
・X,Yの数値表からのアプローチ

この3つを縦横無尽に、繰り返し考察し、操作、探求できるのがグラフ電卓という道具の強みである。生徒各自が自主的に必要と思われるタイミングで。
さらに、数式処理システムをもつTI-92 で授業をして3年になる公庄教諭の言葉で;

・これまでの教育は,知識の詰め込みのために「覚えること」「練習すること」が中心でした。
 これは受け身の学習です。試験が終わればきれいに忘れ去られる内容です。  
 これからの学習には「作ること」「鑑賞すること」「発表すること」が大切です。
 これらは能動的な学習です。

ここで、もう一つの重要な記述を紹介する。

早稲田大学、杉山教授の論文(1999年)から;
・数学の学習に、数学を「作る」「分る」「できる」「使う」があるとすれば、
 今までは中の2つであった数学教育が、今、両端になりつつある。

まさに、どのような授業をしたいかへの啓発である。この実践にはグラフ電卓活用が不可欠ともいえ、欧米で進展している授業改革、我が国でも幾多の学校で進められている試みである。さらに、テクノロジー活用により、これまで扱い難くかった、例えば、多量の現実性あるデータで統計の学習、帰納的アプローチの学習、一層高度な数理の学習、等々その優位性は、生徒たちの自主的な発想に留意した授業の設計を可能にする。
生徒にとっては、自分で操作し、自分で見つけた数理の理解、数理の不思議の認知は格別である。「驚き」と「感動」につながり、「作る」「使う」に通ずる。学習が“自分ごと”に感ずる大事な点である。数学学習に“面白み”を味わえることになる。これを、「人の心に火をつける」というのであろう。動機付けである。ここに、「どのような授業に変えたいか」の基本がありそうだ。
グラフ電卓が数学授業に使われる以前から、特にフランスでは、関数電卓活用が盛んだった。1983年頃、教育用に特別に考えられた関数電卓がフランスの教育者とTI社で開発された。その主な狙いは、よく云われる“数量感覚”を培い、“現実の事象を数学する”という教育目的である。狭い意味の計算力、機械的計算スキルに時間を割くよりは、数学的に考え、問題解決の立式、その試行錯誤を大事にし、数学学習のなかで“作業”ともいえる計算は電卓を活用する、ということでもある。
 現在、各国で進んでいる数学教育改革を観てみると、国の文化、教育の歴史にそれぞれ特色をもっている中、その解決策には共通する点がたいへん多い。まとめると;

.社会生活における数学学習の大切さの認知を基盤に数学的見方・考え方の養成を大事にし、
問題発見力、解決力を培う。
.身の回りの現象を題材にする学習を通して、数学への関心を深める。
.これらを実現するためにテクノロジーを積極的に活用する。

このような狙いの実現には、テクノロジー無しの授業は考え難いというのが多くの国の教育者の言である。もちろん、何もかもテクノロジー活用ということではない。紙と鉛筆による伝統的学習、メンタルスキルともいえる暗算、頭のなかで構想する能力、これらの“バランス”を大事にしたカリキュラムを求めている。
 ここで、一つ言及しておきたい。“テクノロジー活用は動機付けには使えるが、ややもするとトピック的扱いに終わり、数理理解、数学的厳密性へどのように導くかが問題だ”との指摘を耳にする。多くの場合、この発言者は実際に生徒と一緒にテクノロジー活用の実践を持たない人が多い。現実はむしろ、学習者にとって、数理の理解が深まり、学習の仕方への有効な効果を生んでいる。本稿で、その例を示すことは紙面の都合もあり次の機会に譲る。


3.情報の同時共有化

‘受ける’という動詞がある。この動詞の前に置く目的語は例えば、教育、授業、教え、講義、試験、等々。受け身の学習である。生徒たちは与えられ続けることに慣れきっている。それがあたりまえになっていて、与えられることに対する反応が、理科、数学教育においては“嫌いな教科”の増加である。子供たちにとっては、自分が能動の主体になりたいという潜在の願望と満足があるはずだ。取る、つくる、する、等々。この動詞の前にくるのは、感動、発見、意欲、知識、解決、見通し、考え、表現等々。感動を得る、発見する。答をつくる。考えを出す。生徒が主体となる活動の数々、そこに情報化、テクノロジーの活用理由があろう。“情報発信”の喜びである。さらに、情報、コミュニケーションの双方向化である。情報化において大事な点は“情報の同時共有化”という価値である。授業のなかで生徒同士のコミュニケーションを大事にする教師、数学学習の成果としてのコミュニケーション力を説く人も多い。テクノロジーはこのことに極めて高い有用性を発揮する。ここにも、「どのような授業をしたいか」のヒントがある。
グラフ電卓の例でいえば;
各自の電卓のLCD画面にはそれぞれの思考の進展が表示される。生徒の挙手、あるいは教師の指示で生徒の画面がスクリーンに投影され、即、共有化のなかで議論が喚起できる。自分からはなかなか発言しない生徒も他の尻馬に乗った意見が浮かぶ。また、共通のデータが必要な場合、各自の電卓をワイアでつなぎ、データの共有も可能である。これまでの各自が一様に与えられる講義形式の授業から各自の活動を促すダイナミックなクラスを導くことが可能になる。
さらに、最近米国で試みが始まった授業で“クラスネット”という仕組みがある。4,5人のグループに分かれた教室で、各グループの机には無線LANのハブ(小さなボックス)が置かれる。このハブに各自のグラフ電卓(現在市販されているもの)を40cmほどのワイアでつなぐ。無線のハブをとおして教師のPCと各自のグラフ電卓がつながり、クラスネットが形成される。無線LANである。授業のなかで、小テストを一斉に配信し、その正答率も瞬時にクラス全員で共有できる。
このシステムも教育者側の要望によって開発された仕組みである。教師としては、いつも発言のある生徒の学習進展状況はよく認知できている。しかし、大事なのは、発言が少なく目立つ行動を避ける生徒もいるけれど、その生徒のなかには、たいへんユニークな発想をする子もいる。こうしたサイレントな発信が、即、クラス全員の財産として共有できる。各自のグラフ電卓の画面は先生のPCでモニター出来るのである。              
情報化社会にむかい学校教育でもインターネット活用が盛んになる。そのことは良いとして、再度、教育における情報化とは何かを考える必要があろう。情報化の価値“情報の同時共有化”が授業のなかでどういう意味をもつのか。インターネットに接続しなくても、このことの価値は実践できるのである。上の実験授業が良い例である。
情報化の効果として、元の情報から発想し新しい情報を創出するということがある。このこともグラフ電卓活用の学習には欠かせない利点である。生徒たちはそれぞれのレベルで発想が出来ると考える。大事なのはそのあとである。「こうなのかな」と思ってみても、ノートと鉛筆の学習では、いわゆる出来る子をのぞいて、それ以上進めようとする意欲が削がれる。グラフ電卓というテクノロジーはこのときに極めて有効な道具となる。例えば、関数の変数をいろいろ変えて、グラフを観察することで、気づき、発見を助長する。
何年か前のCAI、PC導入に見られたハードウエア先行の問題のように、「どうのような教育をすべきか」の設定が明快ではない状況で、ハード、道具の設置は問題である。情報化、情報化と、あまりにも騒がしい。文部科学省からの助成でさらなる PCとインターネットが設置される。これもテクノロジー活用ではあるが、再度、足元を見据えた授業改革が求められる。グラフ電卓というHandheld Technology は立派な情報化ソリューションなのである。 


4.わが国の状況 
 では、どうしてわが国の数学教育にこうししたテクノロジーが浸透していないのか?
 1992年の日数教論文発表会の会場で、分数計算が可能な電卓とグラフ電卓TI-81が紹介された。その後、日米合同研究会の先生方による米国視察では授業参観も含め、グラフ電卓活用の様子が観察されている。毎年の米国教師研修会議 T^3(Teachers Teaching with Technology)、NCTM大会ではその事例研究、教材の発表、学習評価等の発表が年々盛んになっていた。これらの動向が情報としては日本に届いていた。1996年頃、一部の教育者、熱心な教師たちの間で試みが盛んになったときもあった。そして、先見性ある教育者の貢献で文部省の理科振興法助成金によりグラフ電卓の学校購入が可能となった。ここで一つ、問題があったとの見方できる。先に述べたように「どういう授業をしたいか」、硬い言い方をすれば“授業の哲学”が不明快の状況で、PC導入期にあったような一部の企業の押し込みもあったのか、“ハード先行”の現象が観察された。技術者用には優れた道具であっても、授業という環境のなかでは、先生、生徒にとっての操作性、教育的ソフトウエアの些細な違いが故の、大きな差があったといえよう。 数学教育界におけるグラフ電卓の評価を大いに落すことになったと思われる。 それ以降、‘電卓’という語彙に含まれる計算能力への憂慮という印象も絡み、わが国の掌サイズのテクノロジー普及は、各国の進展に比べ大変な遅れをとってしまったと観察される。
さらに、わが国の一般的社会通念として、どれほど理数教育の重要性が認知されているかが問題といえよう。英語教科においても同様で、学習目的に入学試験という認知がいまだ強いというのが社会の通念である。両親の関心が期末の成績と偏差値という状況では、教師の新しい授業の挑戦もままならない。
平成14年度から始まる新学習指導要領のもと、各教育行政機関、学校長に求められるのは、これまでの“役割を守る”立場から一歩も二歩も踏み出して、あまた在る教育場面で望まれる創意工夫である。積極的な改革を進める教師を支援し、自らも創造的革新の実践が求められている。子供たちの個性と自主性を培う教育が求められて何年も経つが、ここにきて、教えを授ける側にも要求されているのが個性と自主性といえる。 しかしながら、教育行政の人たちにとっては、これまで何十年と続いてきた文部省主導の全国一律的施策の呪縛から抜け出すことは容易なことではないと推察される。
さらに、昨今話題になっている大学改革、中央行政、特殊法人の改革。企業で叫ばれる成果主義の給与体系。いずれの場合にも共通なのは如何に良い成果を出すかが問われている。工夫を忘れ‘十年一日のごとく’毎年同じ繰り返しの授業をする先生、常に“子供たちの目の輝き”を導く授業を試みる先生。人事考課における矛盾が教育の閉塞を招いているといっても過言ではない。
要は、テクノロジー活用の遅れ自体はそれほど問題ではない。中学、高校での授業改革の遅れ、授業の創意工夫への評価が問題といえる。毎年、増加しているのではないかと推測できる“数学嫌い”“理数離れ”の助長が問題である。
 

5.今後の展望
3章で記述した“クラスネット”の今後の動向を考察する。
米国で、一部の学校で実験授業が起きている。これは、グラフ電卓ではなく、ビジネス用途に出回っているPDAと呼ばれる携帯情報機器の利用である。数学の授業ではグラフ電卓でクラスネットを構築した。そこで、この情報化ソリューションを他教科で活用したいという教育者の試みである。
この策を述べる前に、ノートPCを各自に持たせる授業について考える。誰しもが期待する低価格化が故に、一部の教育者たちが熱心な実験授業を行ってきた。しかしながら、こうした欧米の学校での試みは一向に広まらない。理由は簡単である。いかに、低価格、小型化が可能であっても、PCの持つ欠陥ともいえるメインテナンスの煩雑さである。20年以上も改良が続いている機器ではあるが、いまだにユーザーを悩ます問題を抱えているのが現実である。バッテリーの充電、ブートアップの時間、Cドライブのクラッシュ、ソフトの凍結、新しいソフトのインストール、毎回のソフトの立ち上がり時間、さらには1-2年でOSの新しいものが現れる。挙げればきりがない。     
このような不満を感じた教育者が目をつけたのが情報携帯機器PDAである。現在欧米ではいくつかの学校で実験が起きている。この経緯はちょうどグラフ電卓の初期と似ている。ビジネス用に開発されたPDAの特性から、やはり教育の場では、こうしたい、ああしたいという点が明らかになってきている。そうした理由で、現行製品活用の解決策では成功しないと筆者はみている。さらにそのサイズ、用途性と関係する機器のサイズに一考が必要である。 
PDAは一般的に、スケジュール、簡単なメモ、電話番号等、その参照に10秒、20秒、長くても連続 2、3分の使用という特性をもっている。入力についても短時間のメモ程度である。こうした機器にはそれぞれ特有の持続使用時間というものがある。PDA、ノートPC、デスクトップPC、そしてグラフ電卓とそれぞれに。PDA機器を連続15分も使ってみると、そのサイズ、マン・マシーンのインターフェイスの不適正が顕著である。
 教室で使われる道具はどのような使用時間が最も典型か? 教科と授業設計によって、なかなか難しいものである。しかしながら、最大でも継続時間が授業1時限の50-60分ということは言える。そして5分、15分、30分の使用。では、そのサイズ、画面の大きさ、重さ、バッテリーの消耗と。教室用の新しい情報機器の姿が見えてくる。これら生徒各自の機器、教師のPCを含めて、クラスネットが無線で構成される。利用教科、教材は無限である。外部の情報ともネットされる。さらには、教育サービスという学校機関のユーザーである生徒各自の機器がIDとなる。学校の情報化で重要な“情報発信の最小単位”である生徒一人一人のきめ細かいサービス、指導が可能になってくる。教科の改革だけでなく、学校運営そのものの情報化が起きてくる。

しかしながら、こうした高度な仕組みと両立しながら、数学教育改革の基本的解決策であるグラフ電卓、数式処理CAS搭載の機器の活用は今後とも浸透し続けると考えられる。
グラフ電卓は教育の情報化が進む将来につながっているのである。
 
 インターネットWebの活用、教科としての情報、総合学習、いろいろな挑戦が起きている。この流れになんとなく乗っていくのではなく、教育に携わる一人一人が、情報化の意味、テクノロジー活用の意義、価値を再度熟考し、その活用の真の教育的価値を見極める必要があろう。現況を教育危機として捉え、行政、教育界、産業界、それぞれの立場でやるべきことを果たしていきたい。そして、科学技術立国を支える次世代の生徒の間で理数離れを出来るだけ少なくしていきたい。

引用参考
「高度情報社会に対応する数学教育カリキュラムの構想」
 平成10年文部省科学研究費補助金・基盤研究(A) 課題番号08308014 杉山吉茂
「新しい教科書への思い」www.seifu.ac.jp 公庄庸三
「数学教育を想う」www.edu-negishi.com  根岸秀孝 
「Hand-Held Technology in Mathematics and Science Education: A Collection of Papers」
 Edited by E D Laughbaum, Ohio State Univ.(論文集)
「TI-Navigator」 http://education.ti.com/    
 
     



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