“数学嫌い”について、もう一度考えてみる

「数学教育の会」 2002年1月12日 於 学習院大学 発表原稿 
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 昨年発表された2000年度OECD学習到達度調査(PISA)で、わが国の生徒は数学的リテラシー分野で対象32カ国中トップの成績と報告された。この結果をして、これまでの教育を良しとする見方もあろう。調査の内容は通常の授業における学力の習得力を問うものではなく、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価するものだという。しかしながら、対象となったのは15歳の生徒、すなわち高校1年生である。彼らは受験を済ませたばかりで、いわゆるペーパーテストに強い生徒たちであることには間違いない。
 この結果への論評はさておいて、ここでもう一度、TIMSS国際比較の学習態度に関する結果を見てみる。生徒たちが数学学習に対して抱いている気持を重視したい。調査対象学年が中学2年生で、数学学習が「好きか・嫌いか」の問いである。数学が「Like a Lot」「 Like」「Dislike」「Dislike a Lot」の4択の設問で、わが国の生徒の「数学嫌い」の多さは調査対象38カ国中2番目。ちなみに1番目はモルドバ、3番目 韓国、チェコ、台湾と続く。「Dislike」「Dislike a Lot」と表明した生徒がなんと52%である(国際平均は28%)。数学を学習している生徒の半数が「嫌っている」のである。ちなみに、正答率1位のシンガポールの数学嫌いは20%で29番目。

 「もともと数学という教科には嫌う生徒が多かったし、このことはそれほど問題ではない」との見解を持つ先生方もいるようだ。はたして、そういうことでいいのだろうか。筆者はこのことを由々しき問題と考え、教育の社会貢献を考えるうえで極めて重大な問題と思っている。実生活のなかで、あらゆる仕事のなかで数学的思考は不可欠と考えると、全生徒の半数が数学を嫌っていることは極めて問題である。
 一般的に人の習性を考えると、いったん「嫌い」と感じた対象が「好き」に転じることは難しい。心を閉ざしてしまうことになる。好きと感じたことが嫌いになることはあっても。全員が好きにならなくともよい。少なくとも高校を終える段階で、嫌いと決めつける生徒の数を少なくしたい。「好きにはなれなかったけれど、面白いと思ったことはある」「できないけれど、好き」ということで、すくなくとも高校を終わって欲しい。“け嫌い”していなければ、後に何かのキッカケで必要と感じるときに学び直せばよいのである。若い人たちの潜在的向上心を大事にしたい。数学嫌いの“確信犯”は避けたい。数学嫌いを毎年世に送り出し続ける教育の改善を期待する。“負債の先送り”は許し難い。

 「文系・理系 その功罪」(1998年東京理科大学数学教育第40巻1号117頁)で詳しく述べたが、中学生ぐらいでどちらかの資質を自認するようだ。実際の能力とは必ずしも一致せず、単に数学テストの点数でこのことの分別に至るようである。このときの授業の質、教師の導きがたいへん意味をもつ。全生徒の半数を優に超す文系志向の生徒のなかで、何割もの生徒が実は理数系の潜在能力をそなえているかもしれないのである。経済学など、文系でも数学力が必要であることは勿論だが。少数派である理系志向の生徒のなかで果たして何割が、科学技術への、真に創造力のある潜在能力をそなえているのだろうか。単に数学の点数が良いだけで、何となく理数系に進む生徒の割合は? 筆者の長い企業経験で何人もの実例を見てきた。たいへん情けなく感じたことが多い。理数系の人材確保が必須のわが国において、たいへんな損失になっている。 

 では、どうすれば数学嫌いを防げるかを考えてみる。いくつかの示唆、解決策が考えられる。
算盤二段の知人が暗算、読み上げ算について言っていた。数字を見て、聞いて、指で操作し、計算する。「その経過も、結果も、実は珠の位置と数が頭のなかに見えている」と。これはまさに、Power of Visualizationである。素晴らしいのは、算盤での計算結果は云ってみれば棒グラフである。さらに、数字という抽象記号と同値の対象を実際に指で触っているのである。算盤の凄さだ。
 小学算数の授業で、ああかな、こうかな、と数値を“いじっている”。 タイル、おはじき等の教具をとうして。中学、高校に進むにしたがって、数理を自分で“いじる”機会が少なくなっていく。 好奇心と探求心から、ああかな、こうかなと思い付いてもノートと鉛筆ではその気になれない。まあいいやということで、“いじらず”じまい。 ホンの一部のいわゆる出来る子と先生の数学でおわってしまう。 ここで楽しめる筈の数学が辛い数学になっていく。残念である。操作、探求よりは“手続きの履修”ともいえる学習がはびこってはいないだろうか。
 論文言葉では“操作”というようだが、“いじる”という表現、活動を大事にしたい。この“いじる”ことと“視覚化”の道具の効用に意義がある。中学の代数で、「これこれをAとし、これこれをBとする」ということになる。これが“曲者”である。どうもこのあたりが数学離れ、数学嫌いの“発祥”ではないだろうか。 
中学、高校数学で、この数理操作道具としてHandheld Technology (グラフ電卓等)が諸外国では使われている。さらに、この道具で大学レベルの数学を高校生が学んでいる。10代後半の潜在能力は計り知れない。この道具がゆえに教師の役割も変わってきた。講義形態の教え込み授業から、生徒自身の活動的学習を重要視し、学習者の気付きを導く授業、そうした仕掛の工夫が実践されている。教える側中心の授業が学ぶ側中心の授業となる回帰である。学びを与えられるのではなく、“自分ごと”と感ずる学習である。こうした数学授業を受けた生徒たちの感想をみるとその価値が実感できる。このような授業を受ける生徒たちは、自ら、主体的な学習を体験でき、そこに、いろいろな“面白み”を実感する。ときには“感動”さえ味わえるのである。数学を関心ある学習の一つとして受け入れていくことになる。数学を“嫌う”ことなく。
 
 学力低下が話題になる。大都市の学校では私立と公立の格差が憂慮され、都教育委員会は都立高の先生を予備校で研修させるという。なんとも本末転倒な対策。「大学入試が変わらなければ高校の授業は変われない」という声。東大工学部の教授が昨今の新入生の数学力を嘆く。入ってしまえば卒業できる大学の安易さ。大学の分野別世界ランキングの上位になかなかリストされない日本の大学。欧米の大学院大学アジア分校のいくつかが日本をとばしてシンガポールに設置。「トップ30」と称される重点支援、国立大学法人化と、遅まきながら大学改革が揺れる。既得権を守ろうとする大学人と改革派の葛藤。産業界ではコンピュータサイエンスの分野で、インドの若い人材を日本に連れてくるビジネスが受けているとのニュース。新卒を入社させるよりは途中入社のプロをと企業が考える。大企業の先端研究所が人材確保の理由で海外に設置される。数理感覚の欠如、楽観的判断の甘さがゆえか、大規模企業の凋落が、金融企業の破綻が。2年連続のノーベル賞受賞学者で学術会はホッとしているかもしれないが、科学技術立国にあって、ソフトウエア人材の極端な不足に悩む企業等、憂慮されることが多い。そして、財務省からは2002年度予算原案が提示された。はたして、教育への支出とその内容は? 
 
 教育であれ、政治、行政、企業実務、ひいては恋愛であれ、人と人のとあらゆる活動で大事なのは、「いかに、相手の人にその気になってもらうか」だと考える。生徒たちがその気になる授業が望まれる。教育の利益享受者を含めた関係者全員が自分に“指さし”し、それぞれが出来ることから変えていかない限り、教育は良くならない。教育をとりまく仕組みの改革が遅々としているなか、出来ることはある。先ずは“数学嫌い”を減らす努力をしていきたい。提言したい。 (HN)



数学教育を想う 根岸秀孝のページ      http://www.edu-negishi.com

こどもたちは みんな‘チョウ’になれる。いろいろなチョウがいるのがいい。
ひとりひとり 立派なチョウとして それぞれの世界に飛んでいけばいい。
数学学習に こころを閉ざしきった‘サナギ’のままで学校を終えてしまっては 。。。

 
     



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