想う数学・観る数学・思索する数学
  おもい・みきわめ・かんがえる
 
根岸 秀孝
数学教育学会研究紀要 1995年 春季年会 発表論文集 掲載
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人間の自我の達成が故に生まれたかも知れない数学は、聡明なる人々が創り、世のために価値のある存在として生き続けている。まさに人類の誇るべき文化といえよう。昨今のテクノロジー発展の基盤として、数学の価値の重大さに疑問の余地はない。“頭”ではそう理解したとしても、事実として「好きになれない」、「嫌い」と“心”で感じて(理解して)いる学生諸君が増えている事実。この現実において学会として“おもしろい数学”というテーマを設けディスカッションしようという試みを、今回お集まりいただいた諸先生方とともに限られた時間のなかで考えてみようと思う。


という筆者は、数学及び数学教育においては、門外漢もいいところで、ここ2〜3年この世界の入り口でうろうろしながら、心ある先生方に教えをうけている次第。こうした発言をさせていただく資格はないのだが、位取りをいくつも間違ったかのような図々しさのために、こうした希有な機会を与えられ、思うところを先生方にお聞きいただこうという次第である。

「数学がおもしろくない、「嫌い。」この事実を素直に受けとめるならば、ここでもう一度、人の習性、思考のなりわいについて振り返ることもひとつの方法かもしれない。そこで、人の習性を“観る”ために、3つの円によるモデル図を考えてみる。(図1)人は“頭”で考え、“心”で感じ、“体”全体で行動する。この3大要素で人間の多くの活動を定性的に比較検討できそうだ。との思いから筆者はこの数年この概念をいろいろな場面で活用してきた。





本題からそれて、この3要素で組織社会の上司・部下という関係を見てみよう。この3大要素のコンセプトを共有するための例として。
例1「私の上司(教授)は頭は切れるし、やれば何でもこなす超一級な人だけど、気配りが無く、もう一つ、ついて行こうという気になれない。」
例2「私の上司(教授)は、ずば抜けて頭が切れ、考えること一つ一つが鋭く、また先を見透した実に示唆に富んだビジョンを持っている。その上、我々学生や研究室の人達への心配りも人一倍で、それこそ掃除のおばさんにも優しい。でも自分でやろうとするとちぐはぐでうまくいかず、つい助けてあげたい思いにさせるんだよね。」





理想としては、このBrain / Heart / Handsがそれぞれ最大値化され、さらにバランスがとれていることとする。このコンセプトが共有されたとして、次の例で数学教育にこの概念をあてはめてみる。2,3の著名な数学教育の講演で勉強できる機会があった。テーマは「数学的な考え方とその態度」というもの」だったと記憶する。このレクチュアの間、筆者は、ノートを真剣に取っていた。図2に示すようにBrain / Heart / Handsの3つの円をまずノートに描き、ここに講義で先生方のおっしゃるワードをノートしたものである。後で見てみると先生方のおっしゃっているポイントが実にうまく3つのカテゴリーに収まるのである。





ここで“心”の円に注目してみると、ここにノートされた一つ一つの授業のなかで、あるいは学習要領で大切にされていれば、少なくとも、「嫌い」になる生徒が最小値化されるのではないかと思えるのである。どうもあたりまえのことを述べているようで恐縮ではあるが、この“あたりまえのこと”をいかに現実化していくかということにつきると思う。ここにみられる、“関心”、“面白み”、“挑戦心”、“喜び”、“好き”といったことが味わうことができればよいわけである。


そういえば、筆者も小学校の頃は、算数はいろいろ“いじりまわす”ことが出来て楽しいと感じたことを思い起こす。算数課程では当然のことかもしれない。中学になってからは、幾何がおもしろかった。何故ならば、当時先生が良かったのか、あたりまえのことなのかは別にして、随分“いじった”経験を思い出す。代数系のもの、更に高校に入ってからは、この“いじる”おもしろさが全く思い出せない。“いじれる”事が無くなった時にどうも筆者の数学離れが始まったようだ。


別の教授の講演で、少し違った見方の3要素を勉強した。その3つとは、Symbolization / Visualization / Manipulation だったと記憶する。この3要素がうまく授業で活性化されなければ質の良い授業とはいえないという主旨だったと思う。1,2,3という数字自体、記号化であるし、ax^2+bx+cに至ってはまさに記号の他の何ものでもない。ここで解らなくなる前に視覚化が起きればもう一つ理解が根を生やし、確実なものになるという概念である。


この3要素を強引ではあるが先の3要素と対応させてみた。
Brain Symbolization きまりをふまえ考える
Heart Visualization 視て感ずる
Hands Manipulation 実際に操作して試行錯誤してみる

結構うまく合うものである。


ここで筆者の考えた別な3つの要素というか、これも人の習性に関わる論点を述べることにする。図3に示すごとく、人間活動には、3つの象限が存在する。彫刻家ロダンの「考える人」の例を示すまでもなく人は“こうべ”をたれて思考にふける。学習においても水平面(机上面)でものを考え、解を探す。ときに、息詰まった状況で人は斜め上をおぼろげながらに見つめ“想う”ことがある。溜息が出る場面である。そうしたときに、ふとアイディアが浮かぶことがある。そして再び、水平面(机上面)に移りその“想い”を思考に進めていく。





ここで垂直面についての役割をみてみる。元来、人間活動において垂直な面は感性の発露の象現であった。太古の時代の壁画はまさに人間の“おもい”の記録であった。この象現は同時に“観察”と“エンターテイメント”の世界。“観察”の面とは、教室の板書としてあるいはOHPのスクリーンとして利用されている。この“観察”であるが故に、そこには深い観察思考は起きにくい。大勢が参加する会議では最適な象現である。それぞれの参加者はそれぞれ違ったことを考えている場面で、少なくともOHPスクリーンは共通の情報を提供してくれる。授業の板書もまたしかりである。観察し、その結果をノートに取る。でも、それだけでは学習にはならない。先生としては、板書で解決し、「わかりましたか?」と投げかける。生徒としては何となく理解したふうで「わかりました」と答える。これが繰り返される。よく見られる授業風景である。


この“観察”の象現が最適化されたのがパソコンによるデモンストレーション・ソフトの画像である。先に述べた“視覚化”の極致といえる。でも、このコンピュータというしろものは、実は、人間の思考活動に反して存在してきている。人々は、本来の人間の習性に逆らって垂直面で思考を強制させられてから、早くも30年たとうとしている。こうも長いと新しい世代の人からだんだんとこの強制に馴らされてきているのである。観察に最適な象現で思考を余儀なくされている。
幸いノートブックPCの出現、ペン・インPCの出現でかの垂直画面が斜め水平面に近づいてきたことは、我々思考することを得意とする人間としては朗報である。


話がだいぶそれてきたので、ここで前述の内容をふまえて数学教育に戻る。「数学の学習をおもしろくするために必要なことは」の本題に入ることにする。
どうも見過ごしがちな点として、まずは、学習の原点に数学教育を引き戻すことが考えられる。学習の原点とは、やはり“想って”“観て”“いじって”そして“考える”仕組みを大事にすることだとする。そしてそのことに再度挑戦すべきではないだろうか。“観る”とおもしろい数学が結構身近になってきた。


先日、コーネル大のスティーヴ・ストロゲイツ教授の話を聞く機会があった。彼ははやりのカオス、非線形数学におけるダイナミクスといった分野では新進の数学者らしい。グラフィクス・ワークステーションをフルに使った数学モデルの現象をカラーで観るとそこにはある種の興奮をおぼえる。出来れば自分でいじってみたくなる。ここに学習において非常に大切なモチベーションが起きてくる。“観る数学”!「おもしろそうだ」の起点がある。さらに学習の喜びとしていえるのは、何か試行錯誤している課程で、スパッと決まったり、揃ったり、綺麗だったりする感動である。“心”の世界の喜びがある。


オハジキをある数に分けて、全部同じ数で分けられたときの、小学生の感動。想ったこと、観てきたもの、考えてきたものの一致したときの感動。
こうした学習のかたちを実現することも考えて、パソコンによる数学授業が数年の間研究されている。いくつかの研究発表を聞く機会があったが、なかなか適用の困難さがあるようで、もう一つさかんに活用されていないという状況が報告されているようだ。こうしたテクノロジーを授業に結びつけ、もっと“楽しい”数学が起こせないのだろうか?学習者にとって、その問題解決が、自分のまわりの関心ある事象であったり、実際に起きつつある事象で数学できたら、これは彼らの関心をひき大いに刺激されることになろう。こうした実例が研究会等で報告されていることからしても必要な改良点といえよう。


ではどうしてやっていくか?“観て”“考えて”を繰り返し行い、これを同時に進めたりすることができる道具が必要になってくる。更に、実際に起きている現象のデータを使う必要がある。小学校の算数教育ではいろいろ“いじってみる”教具が使われている。中学・高校と進むにつれて、そうした教具がどのようなものがあり、どのように利用していくかということになる。
高校数学においては、一つの解が米国で実践されている。それは、Graphing Calculator 、グラフ表示のできる関数電卓である。


<発表のなかでは、ここで、実際にTIグラフ電卓 TI-82と、
            距離・時間のデータ収集器CBLを使い、二次関数の学習を実演。>


このように“観て”、“考える”、そして“考えて”、“想って”また“観て”みる。“観る”という客観性を自分のものとして主観性にもち込んで思考する。この“観る”、“考える”のくりかえしがシームレスに連続的におこなわれることによって、学習者は数学を“いじってみる”ことになる。そこには板書、講義、ノートにペンという固定化された学習から、もっとダイナミックに観る数学を体験し、思考を豊かにする、“心”にふれる学習のありかたが存在しそうだ。

このグラフ電卓を活用した実例のように学習者にとっての体験は、先に図2で整理された“関心”“面白み”“挑戦心”“発見・解決の喜び”“好き”ということに深く関係してくる。“心”にふれる、すなわち、もっとおもしろい数学ということになればとの願いを想い、本発表のアブストラクトとする。   


数学をもっと、いじってみよう。


(HN)
     



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