「教育における情報化」

根岸 秀孝                                        
早稲田大学数学教育学会誌 2002 第20巻 20周年記念号 寄稿

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 「e‐Japan」構想、「ミレニアム・プロジェクト」等、教育行政のもと、情報機器の設置が進んでいる。教科「情報」が始まり、各県教育センターでの教員研修も盛んだ。こうした状況にあって、もう一度 “情報化 とは?”ということについて考えてみる。
 “情報”の二文字は“なさけ”に“むくいる”と書き、実に“人の習性”に深く根ざしている。このことを踏まえずにコンピュータ、ネットワークの技術知識、活用に走ってしまうと、大事な根本を見失うこととなり、教育の情報化に大きな穴をあけることになろう。人は他より先に情報を得ることに満足し、遅れて知らされることに不安と不満を感ずる。まさに“情けに報いる”という情報伝達における人の性である。 
 一般的に、情報化とは?との問に、筆者はこう応えている。情報化の三要素である。
1.情報発信の最小単位は何か  2.情報の同時共有化  3.多数の情報間の関連と階層構築
この三要素のそれぞれと、相互関係を最適化することを“情報化”とする。

 
 ここで、“よい授業とは?”について考えてみる。これまでに幾つかの優れた授業を、米国の、韓国の、日本の高校で参観してきた。PC、インターネットなどを使っているわけではないこれまで通りの,板書、ノート、鉛筆による数学の授業である。そこで気が付くことは、そうした情報機器を使わずして、立派に“情報化”した授業なのである。では、その情報化とはいったい何であるのかを考えてみたい。
 優れた授業に共通して観察出来るいくつかの要点がある。先ず、生徒たち一人一人の存在、発想、発言を大切にし、それぞれの発信に対して、先生の反応、助言が行き交う。さらに他の生徒の反応を求める。そして,その場その場に即した形で生徒の発言をクラス全員で共有する場を創出し、演出している。その共有される内容から、他の生徒が発想できるような状況を仕組んでいる。人の尻馬の乗る思考を促している。最初に自分から言い出すことを躊躇するような生徒を大事に扱うことになる。合っていようが、間違っていようがそれぞれの生徒に反応し、褒め、さらなる留意をガイドする。このことも含めて、クラス全体で、意見、視点の共有化を進める。授業のまとめとして、その時限内に出てきた幾つもの視点、理解、意見の関連付け、さらには既習の数理、理解をも引き出しながら、階層構築的な整理をガイドして理解へと導いている。
 この良い授業の観点は、まさに授業論的には常識ではあろうが、現実的にはなかなか難しいようだ。むしろ、教師側の進行ペースが主体となり、時間的にも内容的にも計画どおりに進めようということになる。ある授業参観では、“授業計画”なるものがあって、期待される生徒からの質問なども記してあり、先生がその質問へ強引に誘導していることも観察した。“授業研究”とやらの行き過ぎを感じた。学習内容は同じでも、そのクラス、そのクラスの生徒の構成、個々人の発想は必ずしも同様ではない筈だ。生徒たちはそのときどきの授業のながれで違った反応をし、発信する。生徒の質問によって、その授業のながれは変化する。このインタラクティブな進行が大事である。こうした優れた授業をする先生がそろって言及することがある。「二度と同じ授業は出来ないですね」と。授業の享受者を第一義とした、生徒たちの反応、発信を大事にする授業、生徒主体の授業といえる。人の習性を大事にした授業である。ここで、先に述べた情報化の三要素を、上述の優れた授業の観察点と照らし合わせてみる。実によく整合してはいないか。強引な言い方をすれば、“優れた授業”=“情報化”された授業、ということになる。
 

 本論の主張点でもあるが、パソコン、IT機器、ネットワーク環境、インターネット、コンテンツ、マルチメディア、等々に振り回される前に、一考の余地がありはしないかとの視点である。上述のように、IT機器などは使わず展開される授業においても、学習の場における“情報化”が出来ているかどうかである。
 情報化技術は人の活動を、社会の活動を革命的に支援することは確かである。教育という活動も然りではあるが、そうしたテクノロジーはあくまでも道具として活用することに意義がある。「どのような教育がしたいか」「どのような授業でありたいか」、そうした根本的考えが明白でない状況での新しい道具の導入は如何なものかという問いかけである。


 文科省は「教育の情報化プロジェクト」報告の中で教育の情報化について「主体的に学び考え,他者の意見を聞きつつ自分の意見を論理的に組み立て,積極的に表現・主張できる日本人を育てる。」という目標を掲げている。この目標を踏まえた具体的展開のひとつとして、筆者は高林茂教諭との共著論文のなかで“Enable-Learning”という概念を提起した(「早稲田教育総論」第15巻、Mar/2001)。授業で起き得る“情報の同時共有化”をテクノロジーが支援する。これまでの型にはまったコンピュータ活用授業からの脱皮の一例である。

 
 「教育の情報化」でもう一つ、懸念をいだくことがある。ブロードバンド、ネットワーク環境の整備のなか、“マルティメディア・コンテンツ”とその学校への配信が盛んになるという。「分かる」 授業を狙うという。ではなにが懸念かということになる。
 学習のプロセスで重要なのは、生徒一人一人が気付く機会の創出であろう。自分で見つける、自分で感じる、感動する。「そうなのか!」「そういうことなのか」との感受である。自分で組み合わせる、調べる、操作する、実験する、こうした試行錯誤のなかでの気付きが重要となる。
 ここ数年、幾多のPC用教育ソフトが作られた。そのなかには少なくはない数で、“親切過剰”“与え過ぎ”のソフトウエアが存在する。関数の変化の学習であれ、理科実験のシミュレーションであれ、ソフトコンテンツ側が、用意周到に学習者へ一方的に“与える”かたちの教材である。なるほど、一見するところ便利な教材に感ずる。例えば関数の学習ソフトで、画面のX・Y軸の範囲の設定を自動的に調整してしまうものがある。一方、グラフ電卓という教具ではこの座標範囲調整は使い手の仕事である。この画面設定如何で、ある関数のグラフは画面内に存在しないことが多い。生徒たちはそこで数感覚が問われる。そこが学習機会となる。親切過ぎるテクノロジーのおかげで学習機会を奪ってしまうことになるのでは本末転倒であろう。さらに、ブロードバンドによる動画映像の配信もよいが、“与えすぎ”、“親切過剰”の教材は問題である。


 コンピュータを使える子供たちが増える。これからは必要不可欠な道具ではある。しかし、どのような仕掛けのなかで使うかが肝心である。これまで、各学校に設備はしたものの、いっこうに“よく使われていない”現実がある。教育行政のあせりの賜物のような「教育の情報化」であってはならない。教育において、学習者に与えることの意義はもちろん多々存在する。しかし、いま、求められているのは、学習者自らが主体的に“つくっていく態度”を育む教育であろう。この方向に対する解決策が、実はなかなか見えてこない。情報機器の整備以前に、情報化とは?との問いへの考察が必要と考える。
 さらに望まれるのは、学校運営そのものの情報化であろう。学校事務、予算、教科日程、成績記録、こうした事務運営のIT化が遅々として進まないなか、生徒たちには教科「情報」を教えなければならないジレンマが存在する。


追記:E-メイルによるコミュニケーションを、メインフレームベースではあったが、始めたのが1978年、各国支社の経理データのリアルタイム集計、資料の保管と共有、そうした情報化された企業社会に長くいる筆者にとって、今、現実に見えている教育の情報化に対しての“老婆心”である。 (HN Dec/2002)

 


 

     



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