「企業の立場から見た数学学習経験の大切さ」

根岸 秀孝                                        
日本数学協会誌 「数学文化」 vol 0, No.1/2002 掲載原稿

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1.数学教科の位置づけ 
 多くの私立大学文系学部入学試験に数学が課せられなくなって何年も経つ。数学を苦手と感じ、嫌っていた高校生にとってこの条件は、まさにラッキーな高校生活となる。卒業資格となる最低限の数学を履修し、そこそこの点数でも出席さえしていれば単位が取れる、と彼らは知っている。こうした生徒の前で授業を進めてきた教師たちは実に気の毒な存在だ。関心の薄い、あるいは嫌いな教科で、大学入試にも必要のない教科である。充実した授業などは期待し難い状況のなか、何百万人かの生徒たちと先生が時間を費やしてきた。実に由々しき社会資産の無駄使いである。生徒の時間、教師の時間、学校予算、行政予算、教科書のコスト、どれをとっても大事な社会資産である。
 私立大学の受験者人数確保がその動機の一つで数学を課さなくなったと聞いているが、私立大学とはいえ、公共性の高い社会的機関である。知的立国に向かう社会進展を阻害するような、この仕組みは大いなる疑問である。
 数学が大学入試選抜のために道具化されていること自体が、もちろん問題ではあるが、少なくとも、文系志望の生徒たちにとって、社会に出てから必須な教科という認知は少ない。そういう理解が社会に蔓延してしまったことこそ大問題なのだが。
 受験競争に関して諸問題を抱えている隣国の韓国においても、わが国の教育の問題点との類似が多く観られる。しかしながら、数学学習、理数教育の大切さへの認知は依然高い。高校卒業資格試験には数学が課せられているし、理系志望の生徒たちの選択数学教科のレベルはかなり高い。
 小・中・高の数学の時間数を減らしてしまったわが国のカリキュラムは実に由々しき判断と考える。


2.昨今の文系新入社員
 何人かの企業人との会話が情報源で、根拠が充分とはいえない言及となってしまうが、ご容赦を。
 多くの文系新入社員に共通して云えることで、一部理系の新人にも当てはまるのであるが、昨今、明らかに欠如していることが気にかかる。如何なる業務の場面でも、その基本となる、あるいは仕事の常識とも云える“素養”の欠如が顕著に観察される。
 多くの情報が錯綜する状況下において、どのような業務においても、求められるのは物事の整理、統合、構築、判断である。多くの情報の整理とその活用には、それぞれの性質によるグループ分け、重要度の抽出と順位付け、それぞれのタイミングの意味、そしてその判断が求められる。こうした枠組みの仮説、検証、判断の能力が業務の“素養”である。多くの仕事がマニュアル化されてはいるが、それぞれのアクションにはそれなりの理由がある。このことに対する気付き、疑問、理解も“素養”である。今進行中のアクションの意味付け、他との関連性に鈍感であっては困る。意味のないこと、間違ったことに気付かずその仕事をし続ける。最悪の場合は、昨今話題になっている企業犯罪にも結びつくリスクが潜在する。 
 前述の何人かの企業人が同意するところでは、これら“素養”の基盤は学校教育を通して育まれるとの理解である。しかも、数学学習の体験が重要であるとの認識だ。もちろん他教科の大事さも分かる。しかし、疑いもなく数学学習がその素養を育てるというのが結論であった。「何十年も社会生活をしてきているが、学校で習った二次方程式など一度も使ったことはない」というようなコメントのことではない。数理そのものを活用する仕事というものはある程度限定される理数系基盤の業務である。一般の仕事の中で使われる“素養”、それは数学学習の体験があってはじめて無意識に身につくものである。この素養の欠如が大問題なのである。

 
3.では、今後どうするのか?
 これまで何年にもわたり、数学教育界の行政を含む諸機関では諸々の施策が成されてきたと思う。しかしながら、数学教育界に拘わらず、一般的にわが国の行政、公的機関の“性”なのだろう。「改革よりは改善から」、「全員のコンセンサスをまず」など、さらに自己保全策がその流れではなかったか。企業活動でそうした態度でいると、損益に直接関係する、いわんや企業存続に影響する。
 教育界のそうした保守的な状況で改革を望むのは困難かもしれない。むしろ、従来の仕組み、機関に左右されることのない団体、機関、仕組みを設定し、しがらみを一旦断ち切った状況、立場に立った計画が望まれる。いわゆる、“zero-base”からの再スタートであろう。
 
 現在の学校機関に求められ、可能である改善もある。それは「数学の授業が楽しい」と感ずることが出来る工夫である。群馬で教職にある数学の先生の言がある。ある生徒が音楽の授業について、「出来ないけど授業は好き」といったそうだ。この一言は彼にとってたいへんなパンチであったという。それ以来、彼の努力は、如何に生徒たちが授業を楽しく感じながら学習出来るかという挑戦である。
 “数学嫌い”の減少が、現在の最大課題といえる。一旦嫌ってしまったことを取り戻すことの困難さに異議は少なかろう。いかに数学学習に面白みを感ずることができるかへの工夫が望まれる。

成功している企業活動に共通する必須の事項とは何なのかを参照したい。幾つかの重要点を列記すると;
‐顧客の満足とは? その要望の明確化
‐顧客要望に応えるための情報化
‐重複、錯綜する多量の情報の整理・構築
‐企業の使命とヴィジョンは?
 このことを数学教育へ当てはめてみると、要は、数学学習の意義の明確化、何をなすべきかの再構築、いかに教育の利益享受者である生徒たちに関心をいだかせるか、等々が成功の必須条件といえる。これらの再考察から、そのカリキュラムを、授業プロセスを洗い出し再定義する。そのプロセスの最適実践のため、もし道具が有効であれば積極的に活用する。米国におけるグラフ電卓の活用はまさにこうした方向への解決策となっている。生徒たちの学習態度の改善だけではなく、いわゆる出来る生徒のさらに高度な数学への関心とその探求が盛んになってきた。
 

4.大事なことは・・・・
 数学授業の改善で生徒が関心を抱くために重要なのは、学習そのものが“自分事”に感ずるか否かの仕組みと授業運営にあろう。数理の講義をうけ、演習を課せられ、その理解の度合いをテストで試される。このような典型的な学習では、生徒にとっては学習が“ひと事”になってしまう。生徒たちは潜在的に自分で何かを作ることに喜びを感ずるとする。そうした自らが活動する機会が用意されるべきである。
 これまでに少くない数のPCソフトウエア、Webコンテンツが作られてきた。さらにブロードバンドの時代にむかい、政府助成でマルチメディア・コンテンツが用意される。こうしたテクノロジー活用自体は意義ある解決策となる可能性をもつ。しかしながら、気を付けなければならないことがある。“与え過ぎ”、“親切過剰“とも云える教材には問題がある。
 家庭生活で、与えられることに馴れてしまっている昨今の子供たちには、受け入れ易いかもしれない。工夫に時間を取られる先生にとっては、ありがたい助けとなるとの見方もできる。しかしながらである。学習者自身が主体的に“作っていく態度”を育む教育が望まれている。自分で探り、考える体験のなかに関心が育まれる。
 生徒が考え、試行錯誤し、自ら作る機会を奪ってしまうことにもなる懸念のある教材、学習の進め方では本末転倒である。「分かり易い」を大義名分に用意されるこれらの教材には注意が必要だ。

 今般、「日本数学協会」が発足する。従来の伝統的学会主体の団体に敬意を表しながらも、こうした枠を一旦取り払い、新たな発想と着眼を大事にした ”zero-base”からの構築に期待がかかる。会員は数学界、数学教育界に限らず広く他の分野からも参加されると聞く。社会の、大きくは人類の財産である数学への価値認識を広め、社会生活にとって必要な素養としての数学的考え方と、見方の啓発、これらを育む数学学習の見直しが期待される。 (HN Dec/2002)

 


 
     



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