教科「情報」にそなえて...基本的なこと
数学教育の会(9/23/2001)提示原稿 7/23/2001 根岸 秀孝
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  情報化に関する書籍も多く、すでに教科書が執筆されている現在、もう一度“情報化”とは?ということについて考えてみる。
“情報”の二文字は“なさけ”に“むくいる”と書き、実に“人の習性”に深く根ざしている。このことを踏まえずにコンピュータ、ネットワークの技術知識、活用に走ってしまうと、大事な根本を見失うこととなり、情報科教育に大きな穴をあけることになろう。
人は他より先に情報を得ることに満足し、遅れて知らされることに不安と不満を感ずる。まさに“情けに報いる”という情報伝達における人の性である。また情報の伝達、コントロールをその大儀とした管理職は、今や時代錯誤の典型となっている。知識の伝達とそのコントロール(例えば、教師中心の授業進行)を大義とした教師もまた同様であろう。生徒の主体性と自主的学習能力を大事にした教育が望まれている。
  
  情報技術には3つの役割がある; Create / Communicate / Store & Reuse
        つくる / 伝える・共有する / 保管・再利用

情報化技術はこれらの基本的な人の活動を革命的に支援する。そして最もパワフルな価値といえるのが、情報の“同時共有化”である。情報が関係する全員のあいだで瞬時に共有できる。このことが産業界で起きている改革の元となっている。金融界、流通業界で。簡単な例はオンラインの株投資、企業の購買業務、メイリングリスト、ネットオークション等々。教育の場では、生徒たちの持つグラフ電卓が無線ハブを通じて先生のPCとつながり、Classroom Netシステムを使った授業が米国の極一部の学校で始まった。先生は、各自の学習進展を瞬時にチェック出来る。生徒との対話、グループ学習にも役立っている。いつも発言がなく静かにしている生徒が、思いもつかない素晴らしい発想をしているかもしれない。学習において、“人の尻馬にのる”という大切さを説く先生を知る。一クラスの生徒のなかで、自ら発想し発言する生徒は少ない。二番手として、級友の発想をもとにそれを広げ、違った見方をすることの大切さ、これは個別学習では得られない授業の価値という。まさに“情報の共有化”の賜物である。

  情報(これまで得た知識、新しくつくる知識、これらを整理、複合、統合し新たに構成する知識)が知識単位として蓄積される。ストアーするだけで活用しなければ、その価値は半減する。「これらを活用することをして“情報化”と呼ぶ」としてはあまりにも単純過ぎるかもしれないが、この活用の意味をしっかりと見据えることが疎かになりがちである。教育の場で、情報化される知恵を学習者と深く共有できる授業が期待される。文部省は「教育の情報化プロジェクト」報告の中で教育の情報化について「主体的に学び考え,他者の意見を聞きつつ自分の意見を論理的に組み立て,積極的に表現・主張できる日本人を育てる。」という目標を掲げている。この目標を踏まえた具体的展開のひとつとして、筆者は昨年、高林茂教諭との共著論文のなかで“Enable-Learning”という概念を提起した(「早稲田教育総論」第15巻、Mar/2001)。これまでの型にはまったコンピュータ活用授業からの脱皮の一例である。

  ここで、“つくる、伝える、再利用する”という情報活動と数学学習との関連を考えてみる。“つくる”、即ち、創造的思考を数学教育に求めるようになっている。数学を学ぶ価値として、コミュニケーション、議論、発表の大事さも説かれている。抽象化、数式化はまさに再利用の条件であろう。この点で、情報科と数学科の学習にはたいへん深い潜在関係が存在する。プログラミングを学習するとか、PC活用で関数の学習をするというような表層的なものをはるかに超える関連価値といえる。さらに、数学授業で起き得る“情報の同時共有化”をテクノロジーが支援する。

  教科書に頼った授業からの脱皮が起きている。教材工夫を常に試みている先生方の間では、その創造された教材の共有化が地域を越えて行われている。インターネットWebベースの教材データバンクの設置が始まった。情報化の価値、同時共有化の表れである。

  情報化によって、これまで伝統的に分かれていた領域の統合化が産業界で起きた。教育の場では総合学習がある。創造的な授業設計をしてきた先生方にとっては何も新しいものではないという認知があろう。制度的には新しいということである。
各教科の関連を見据えた新しい枠組みのなかで、魅力的な学習機会を創りだすことになる。まさに“情報の共有化”である。図に表すとこのようになろう。







  この構図で総合学習には、是非、“創造する”という授業設計をしていきたい。知識・知恵という情報を、それぞれの教科領域をこえて共有する。そうする知恵を教科「情報」で培いたい。“情報の同時共有化”の価値を学び、それを活用し、新しい知恵(情報)創りだす教科にしたい。
“よいものを創り、よく伝える素養”(よく‐頻度ではなく、最適にの意)。そしてこれらの共有により学習のダイナミズムが拡がってこよう。まずは、学校と学校、地域、県へ、国へ、そして、国際的なつながりがあってこそ、21世紀を担う次の世代への教育となろう。

  さて、情報化において大事な概念、何が“情報発信の最小単位”なのか?ということがある。
“バーコード”という記号が多くの商品ラベルについている。これが流通業の革命を起した。情報発信の最小単位である個別アイデンティファイが意味をもつ。大量の情報が整理、伝達され、その動向が察知される。企業ではICカードを社員バッジとしている。病院では患者、看護婦、医師が、大学では学生、スポーツクラブでは会員、デパートでは顧客が。これら全ては情報発信の最小単位である。進んでいる市役所などは住民票管理、住民サービス等に情報化が起きている。一部の大学では学生証のICカード化により情報化が進んでいると聞くが、学校運営にこうした情報化のシステムがはたしてどれほど浸透しているのだろうか。おそらく一番遅れるの学校運営ではないだろか。
  
  学校の自主、独自工夫が求められている。今後、さらなる勢いで選択課目のシステムが拡がっていく。習熟度別授業、増加するであろう選択教科、時間割の複雑さは相当なものになろう。情報発信の最小単位、学生、学習進展、教師、各教科課目、時間、教室、教師の給与制度、予算。こうした、多量、複雑系の運営において、最適な教育サービスという仕事が情報化無しで実践できるだろうか。教育現場の改革が起きるのだろうか。学習指導要領が如何に変わろうが、学校は変われないとの憂慮がある。学校運営で情報化を享受できず、生徒に情報科をどう指導したらよいのだろうか。教育は人間と人間の行動であり、ハイテックの情報化などによって改善できるものではないとの意見もあろう。しかしながら、情報化を学校運営にうまく生かし、最適化をはかっている国々が増えている。

  コンピュータを使える子供たちが増える。これからは必要不可欠な道具ではある。しかし、どのような仕組みのなかで使うのかが肝心である。これまで、各学校に設備はしたものの、いっこうに“よく使われていない”現実がある。教育行政のあせりの賜物のような教科「情報」であったはならない。また、行政が唱える「ミレ二アム・プロジェクト」がある。その一部に多量、良質の映像データを配信する教育支援がある。ブロードバンド・インターネット技術がゆえに可能なメディア革命とされている。メディア・リテラシーとして、これ自体は素晴らしいかもしれない。しかし、配慮が必要なのは、「またしても“与える”かたちの教育か」との疑問である。教育において、学習者に与えることの意義はもちろん多々存在する。しかし,今求められているのは、学習者自らが主体的に“つくっていく”態度を育む教育であろう。この方向に対する解決策が、実はなかなか見えてこない。

  数学教育で、英語教育で、それぞれの危機が、改善策が議論されている。こうした基本教科の改革がままならない状況で、情報教科、総合学習と新しい挑戦が起きている。
はたして・・・・・・



数学教育の会(9/23/2001)提示原稿(HN)



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